しかし、ルーはすぐにちいさく溜息をつき、
「さっさとあのクソ魔女から引き離してしまいたいが、無理強いはしたくない。自分の意志でやつから離れなければ、意味などないからな」
「子どもが、好きなのか?」
「いいや。洟垂れたガキは嫌いだ」
 きっぱりと言い切るルーに、首を傾げる。ますますわからない。
「だったら、なぜ……」
「なぜとはなんだ。わたしがミラを可愛がるのがおかしいか?」
「ちょっと、意外だ」
「あれの父親とは、友人だったからな」
 ふ、とわずかにくちびるを笑ませたルーだが、しかしその表情は明るいとは言えなかった。
 さらに、その笑みさえもゆっくりと消えゆき、どこか重苦しいような空気が雨とともに落ちてくる。
 耳を打つ、黒い傘にちいさく跳ねる雨の音。
 傘の下で長い髪を揺らしながらまっすぐに前を見据えて歩むルーの、貴婦人の羽根扇のような睫毛がゆるやかに上下した。
 
 深い悲しみを負ったひとの、匂い。
 それを乗り越えようとしているひとの、匂い。
 
 ふと耳に蘇るのは、先ほどの老翁の声だ。
 どことなく、おなじ匂いがするのだと。
 そう言っていた。
 雨と雨雲に遮られた夕影はひどく弱々しく、夜を待たずとも取り巻く景色は薄暗く沈んでいる。
 そうでなくとも、屋敷周辺の町並みは閉鎖的で寒々しい空気を湿気のように放出ししているのだ。一層、暗い印象がじわりと肌に染み込むようで、ジュリアンは知らず、ちいさく身を震わせた。
 雨のなかをゆっくりと優雅にも見える足取りで行くルーの姿は、まるで景色から拒絶されているかのようにくっきりと、しかし、淡い夢の花のように石畳の上に咲いている。
 たっぷりの水に溶いた黒インクを流したかのような冷えた石造りの町並みのなか、まるで色彩はそこだけにしか存在しないのではないかなどと、そんなことを思った。
 目のまえの白い頬はふわりと甘い色の髪に縁取られて、いまにも粉砂糖のように溶けてしまいそうだ。
 それは、なにも知らない姫君のもののようだというのに。
 この吸血鬼(ヴァンピル)は、いったいどんな悲しみを負ったのだろうか。
 司祭である自分になら聞けるのだろうか。
 聞いて、それを受け止めることができるのだろうか。
 はたして自分は、悲しみを乗り越えようとしているのだろうか、と思う。
 理想には程遠く、せめて人目には清廉な司祭と映るよう演じる自分などにそんな力が、拒絶されてもまっすぐに立つ力が、取り乱さずになにもかもを静かに受け入れる力があるのだろうか、と。
 不意に、しばらく黙っていたルーが、じっと見つめるこちらの視線を鬱陶しく感じたのか、眉をしかめつつくるりとこちらを見上げ、ふっ、と頬に向かって息を吹きかけてきた。
「……なっ」
「なあ、ジュリアン司祭」
「なん、だ」
「あんまり見つめていると、金とるぞ。貧乏そうに見えて、実は隠し持っていたりして。おまえ、ちょっとそこで飛び跳ねてみろよー」
「はあっ?」
「まあ、金は有り余っているから、きょうは大目に見てやるが」
 ふふん、と笑われたジュリアンは、しかし、金が有り余っていると聞いて軽く眉を寄せた。
 よくわからない冗談は脇に置いたとしても、暇潰しだという魔物狩りは正義の味方を名乗っているくらいなのだから、ルーは金銭など要求しないはずだ。実際、自分はそのような話を彼女としてはいない。そうだというのに有り余るほど金があるというのは謎だ。
 それにどちらかというならば、ルーは金銭に執着しているような印象はない。報酬として要求してくるなら、金銭ではなく別のものである気がとてつもなくする。はっきりとした対象を挙げるならそれは、血液なのだが。
 考えていることが顔に出ていたのか、ルーがこちらを見上げて意地悪そうににやりとくちびるを歪めた。
「たしかに、金よりも血のほうが好みだがな」
 そう前置きをしてから、ルーはふたたび目的があるのかないのかははっきりしないものの、歩き出す。
「実際、金はある。父の遺産は全て引き継いだからな。ついでに株もやっている」
「はあ? 株?」
「暇なんだもーん。ちなみにセシルは庭で野菜をつくっている。花が咲くほうが良いと言っているのに」
「あぁ……そう。まあ、野菜はともかく……あの屋敷はすごいな。いろんな意味で」
「元は貴族だ。父の代、正確には父が存命の間はわたしも人間の振りをしていたからな」
「なぜ、振りをやめたんだ?」
「ありえんだろう? 何十年もこぉんなに若くて美しいまま変わらないわたしが、魔物狩りをしているなんて」
「あーそーですか」
 あまりにも真剣に、ありえない、と言い切られて、思わず頬を引き攣らせるジュリアンだ。力ない返事をすると、そういうことだ、とルーには逆に力強く頷かれてしまう。
「それで、話を戻すが」
「え? ああ……」
「財力や権力というものには社会的な責任が伴うという考えが、貴族の家にはある。力を持たない者を支援しようということだ。特権やら贅やらを正当化するための、ただの言い訳で、偽善にも思えるだろうがな」
 ふと、そのとき脳裏を過ったのは、やさしげに蓄えられた白い髭だった。
「……偽善だろうが……誰かがそれで実際に助かるなら、別にいいんじゃないか」
 誰に何と言われようと、あの手が自分を汚れたごみ溜めのような世界から拾い上げてくれたのだ。
 あの背中が自分を庇ってくれたのだ。
 尊いひとだと讃える声が多かった。
 けれど、偽善だと言う声も、わずかとはいえなかにはあったから。
 たとえ自己満足の上の行動なのだとしても、自分は救われた。そういう人間もいるのだ、と。
 声に、出したかった。
 そしてそれを声に出すと、以前は特権階級にいたという魔物の女がおかしそうに青い瞳を細めてこちらを見、やがてちいさく微笑む。
 その微笑みは思いがけずやさしげで清らかに見えて、ジュリアンは束の間瞠目した。
 しかしルーはまたすぐに笑みを消し、今度はゆるりと薄紅色のくちびるから溜息を吐き出して、
「まあな。そして、そういった考えのもと、父も、貧しい環境下にある画家たちの活動を支援していた。父が亡くなってからは、わたしが。その、画家たちのなかに……ミラの父親となる青年がいた」
 そう、言った。
 
 

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