「それは素晴らしい画家でな、ふっ、と息を吹きかけたなら絵のなかの人物が動き出すのではないかと思うほどの、技巧の持ち主だった。無名だった彼は、しかしそのうち、そのあまりに素晴らしい技巧のせいで、若く美しい娘を攫って殺してはその姿と魂とを絵に閉じ込めるだとかいうふざけた噂が囁かれるようになり、『悪魔の絵師』という呼び名がついて……貴族の間では持て囃されるようになった」
たしかに恐ろしい噂などは、道楽ものたちにとっては刺激的な娯楽でしかないのだろう。それが美術品として素晴らしいものであるのなら、なおさらだ。
嫌悪や奇異な目で見られ社会からは疎外されるが、その絵でそれなりの財は成せる。
財は成せるが、しかし、孤独。
そう言ってルーは、ふ、と皮肉な笑みをくちびるに刷いた。
「まあ実際、吸血美少女だとはっきりと口にしていたわけではないにしろ、何十年も同じ姿で平然と人前に出るようになったこのわたしの援助を受けていた上に、友人でもあったわけだから、その技巧を妬む者の悪意が発端にしろ、おかしな噂を立てられ恐れられても不思議ではないだろう。だがそれでも彼本人は、孤独のなかにあっても少しも歪むことなく、ひどく控えめで優しい性格をしていた……死ぬ間際までは」
しっとりと濡れた石畳のゆるやかだが長くくねる坂を上がり、やがてじっと雨のなかに静かにうずくまる、排他的で陰気にも見える石造りの町並みを見下ろすあたり。
ルーはその控えめで優しかったと言う画家の面影を探すように、どこか遠くへと視線をやった。
「死んだのか」
静かに問うと、暗く沈むようだった青い瞳を縁取る長い睫毛が、雨の匂いを絡ませながらゆるりと上下する。
「ああ。気が触れて自害した、と世間では言われている。あるいは、某吸血鬼に全ての血を吸い出されて殺された、と。だがそれは、表向きの話だ」
「某吸血鬼、って思い切りお前のことだろう。それが表向きなのは、吸血鬼としてどうかと思うぞ」
「表向きだ。人間を装うのをやめたといっただろう」
「……ああ、そう」
「そうだ。だが、実際は、娘を奪おうと現れたあのクソ魔女に激しく抵抗し……惨たらしく殺された」
それを聞き、あぁ、とジュリアンは苦しい溜息をこぼした。
傘の柄を握る手が、じわりとぶれる。
「絵を、実体化する力を、あの子が持っていたからか」
その力を自分の力として使うべく傍に置くためなのか、とそう視線を暗い町へと落とし、じわりと湧いた怒りを押さえながら低く問うと、ルーの苦く笑うような気配を感じた。
「一度はあの子を置き去りにしたくせに、な」
「なに」
苦々しく呟かれた言葉に、一旦は逸らした視線をルーへと弾くように戻す。
すると今度は、ルーの矢車草の青色をした瞳が逃げるように逸らされた。そして、
「ミラは、その画家ジェロームと……クソ魔女の娘だ」
そう、明かされた。
「な……っ?」
「わたしは……とめなかった」
とめなかったのだ、と言われて、え、と瞠目する。
どういうことだ、と黙したまま問うように見つめると、それまでさほど表情の変わらなかったルーの白い顔がかすかに歪んだ。
「人の社会からはみ出し孤独を抱えていたジェロームにあの魔女が近付いたことに気付き、ジェロームがあの魔女に少しずつ惹かれていることにも気付いていたのに、わたしはとめなかった」
「なぜ、だ」
「わたしの愚かな過ちだ。あまりに愚かな……希望だった」
希望、とその言葉を吐きだしたルーは、まるで血反吐を吐くように喉を引き攣らせくちびるを震わせた。
「それまでのことを勘違いだと思いたかった。そうでなくとも、それでなにかが変わるのではないかと思いたかった」
「どういう、ことだ」
「とても、幸せそうに見えた。幸せそうな光景が……とても懐かしく、愛おしく思えて……なにも言えなかった。それにあの女は、ミラを身籠ったから。いままで……父との間にも子を身籠ることなどなかったのだ。だから……」
「おい、ちょっと待て。父との間に、ってどういうことだ」
とっさに傘を持たない手でルーの細い肩を掴む。
あ、と一瞬驚いたように瞠目したルーは、すぐに苦しげに眉を寄せて顔を逸らそうとした。しかし、ぐ、とその途中でくちびるを引き締め、睨み据えるようにまっすぐにこちらを見上げ、
「……あの女は、我が父の後妻だった」
おそろしく低い声音で、わずかにぶれることもなくそう言った。
けれど、やはりずっと押し込めていたものを吐きだすことが辛いのか、そのあと、掴んだ細い肩からかすかな震えがジュリアンの手に、肉と骨を縫い流れる血に沿うようにじわりと伝わってくる。
「わたしは……」
ルーはそう言いかけて、ふ、と溜息をつく。
同時に、手に伝わっていた震えが引いた。
そうやって、これまでも自分を押さえていたのだろうか。
長い間、そうしてきたのだろうか。
ふと、そう痛ましいような思いで目のまえの白い顔を見つめると、もう一度溜息をついたルーが掴んでいた手を静かに離させた。
ひやりとした白い手に触れられるもすぐに離され、さきほどまで細い肩を掴んでいた手は所在なげに宙に浮いたままとなる。しかし、その手をジュリアンはすぐに身体の横に落とした。
司祭が告白を受けるごとにこのようなさまでは情けない、とかすかに溜息を吐き、まだ震えの名残りがあるような手を、そっと握り込んだ。
ルーはゆるやかに睫毛を揺らし、こちらを見ている。
「……すまない。つづけてくれ」
言うと、かすかに微笑むような気配があった。
そう感じて、いつの間にかうつむかせていた顔を上げてルーを見つめるが、その顔からはすでに微笑みの欠片など消え失せている。
いや、それどころか氷のように一切の表情が消されていた。
そして、
「かつて、わたしは義母であるあの女を姉のようにも慕っていた」
そう、底冷えするような冷たい声音で、告白する。