「……弱さ?」
 思いがけないその表情と言葉に胸を突かれてジュリアンが瞠目すると、ルーはゆっくりと長い睫毛を上下させ瞬きをひとつして、立ち上がり、
「ジュリアン司祭。すこし、外に出ようか」
 こちらが返事をするまえにさっさと背を向けてしまった。
 戸惑い、思わず老翁を見遣るものの、その老翁に、
「ルーが胸の奥にしまいこんだものを、聞いてあげてくれないかなぁ」
「俺が?」
「腐っても司祭殿。僕には聞かせられないことも、あるんだよ」
 にこ、と皺に包まれた深くやさしい双眸で微笑まれてしまう。
「おまえさんはまだ弱いしヘタレだけどねぇ……それでも、どうしてかなぁ。どことなく、ルーとおなじ匂いがするんだよねぇ。ルーのほうが可愛いけどね、もちろん」
「ヘタレ言うな。誰がヘタレだ。それに、俺は吸血鬼(ヴァンピル)じゃない。おなじ匂いなんてするはずがないだろう」
「そうじゃないよ……深い悲しみを負ったひとの匂いだよ、司祭殿。それを乗り越えようとしているひとの、匂い」
「……え」
「あぁ、いけない。ルーを待たせ過ぎるのはよくないなぁ。女王様と奴隷ごっこをさせられるよ? 黒くてながーい鞭があの物入れの中にあってね、それでこうぴしゃーんと。ああっ、お許しください女王様ぁぁっ! みたいな、ね」
 なんだそれは。
 呆れてそう言ってやろうとしたが、声は出なかった。
 
 深い悲しみを負ったひとの、匂い。
 それを乗り越えようとしているひとの、匂い。
 
 それが、自分とあの吸血鬼からはするのだ、と。
 おなじなのだ、と。
 そんなふうに言われては、
「……困る」
 つぶやくと、なんだい、と老翁に微笑みながら首を傾げられた。それに、なんでもない、と首を振って答えてルーが消えた扉へと向かう。しかし、
「あぁ、司祭殿」
 ふと思い出したように声をかけられて、振り返った。すると、あいかわらず老翁はにこやかなまま、
「ルーにえっちなことしたら、怒るからね?」
「……するかボケっ!」
 思わず物を投げてやりたくなったが、周囲にあるのは値の張りそうな調度品や骨董ばかりだったので、とりあえず軽く怒鳴るだけにして、ジュリアンは彫刻の美しい扉を静かに閉めた。
「……まったく」
 叫んでばかりだな、と扉を背にしてつぶやくと、目のまえに伸びる薄暗い廊下の先を見据える。
 毛足の長いくすんだ臙脂色の絨毯は足音を吸い、壁に掛けられた幾つもの額の金縁が重たげな絵画がまるで鏡面のようにこちらの姿を映した。
 現実の世界から自分が消えてしまったかのような、別の世界に囚われてしまったかのような、そんな感覚に陥りそうで、落ち着かない。
 いや、もうすでに、囚われているのか。
 祓魔師とはいえ、いるはずなどないと思っていた魔物。
 そして魔女と、吸血鬼。
 そんなものが棲む闇の世界に、囚われて。
 なぜこんな目に、と思いはするものの、しかし怖くないといえばまったくの嘘となるが、それでもいまの状況を心底忌み嫌い憎んでいるわけでもない自分に呆れ、驚いていた。
 それはたぶん、いろいろと規格外である吸血鬼と彼女を愛する老翁の存在によるものなのだろう。
 だとするのなら。おなじ匂いがするというのなら。
「べつに、聞くだけなら……聞いてやらないでもないけど」
 そう自分に言い訳をするようにつぶやくと、ジュリアンは歩む足を速め、薄闇のなかを進んだ。
 廊下のつきあたりにある扉を開くと、大きな窓が並ぶ広い廊下に出た。
 彩度の低い花のない寂しい庭に降る雨が、しずかにこちらを閉じ込める檻のようで、なぜかひどく悲しくなる。
「ジュリアン。遅いぞ」
 不意に声をかけられて声がしたほうへと瞳を遣ると、黒い傘を手にしたルーが外へとつづく扉に寄りかかって待っていた。そして無言で、傘をこちらへと寄越す。
 差せ、ということだろう。
 吸血鬼とはいえ女性に傘を持たせるのも気が引けるため、こちらも無言で傘を受け取り、先に外へと出ると傘を開いてあとから来たルーの上に差してやった。
「で? どこにいくんだ」
 蝙蝠の飛膜のような傘は大きめのものではあったが、ふたりで入るには少々窮屈だ。法服の肩がわずかに濡れる。すると、自分としては特にそれを気にしていたわけではないのだが、
「……傘はおまえが差せばいい。わたしは、構わない。べつに水が苦手なわけでもないし、風邪もひかない」
 ふ、と不敵に笑われしまった。
 しかし、だからといって自分ひとりが傘を差す気にもなれず、さっさと傘から出て歩き出したルーに歩調を速めて傘を差してやる。いい、と言われたところでこちらが気になるのだから、肩が濡れるくらいは仕方がない。
「今朝、教会で俺を襲ってきた子だが」
 呆れたような息を吐くものの文句は言わなかったルーの隣りを歩きながら、ジュリアンはあの写生帖から魔物を生み出した少女のなまえを口にした。
「あの子も、魔女……だよな? 話に聞くクソ魔女のような邪悪な感じは、あまりしなかったが」
「あぁ、ミラか。あれは、可愛いだろう?」
 ふふ、と愛しげですらある青い瞳で微笑んだルーに、ジュリアンは軽く瞳を瞠る。まさか子どもとはいえ魔女に、そんな表情をみせるとは思わなかったのだ。
「絵はへったくそだがな」
 そういってみせる声音からも愛情のようなものがちらと滲むようで、思わずその名工によって生み出された精緻で美しい人形のような横顔を盗み見た。
 
 

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