「なんできぐるみなんだよ!」
「女の白いやわ肌には陽光は禁物なのだぞ。知らんのか。わぁ、無知ぃ」
「っつか、おまえが化け物なだけだろ、吸血鬼(ヴァンピル)っ!」
 頬を引き攣らせ叫びながら、ジュリアンはとっさに伸ばした手に触れたものの中身を、きぐるみを穿いたままのルーの顔にぶちまけた。
 思わず瞳を伏せたらしい愛らしくも美しい顔や、頬や額にかかるアッシュピンクの髪から、透明の水が滴り落ちる。
 かけてしまってから、ジュリアンはその手に握っていたものを見下ろした。
 精緻な透かし彫りのある硝子瓶。
 どうやらルーにかけたのは、神に祈って清めた水、聖水だったらしい。
 しまった、と慌てて立ち上がる。
 吸血鬼は聖水に弱い、と聞いたことがあったのだ。
 相手は吸血鬼かも知れないが、しかし、なにも顔にかけることはなかった。
 もしもこの少女の顔が聖水のせいで焼け爛れてしまったなら、とそう案じたそのとき、
「……ジュリアン」
 ぞっとするほどに凍えた声音を、薄紅色のかたちの良いくちびるから吐きつけられる。直後、
「生ぬるいっ!」
 恐ろしい速さで、きぐるみの左前足が振り下ろされた。
 避けるどころか避けようと思うことすらできないうちに、ジュリアンはふたたび石床にほとんど叩きつけられるようにして転がされる。その衝撃に声も出せずにいると、ぐい、と乱暴に髪を掴まれて顔を上げさせられた。
「どうせなら、よく冷やした水にしろ。気の利かないやつだ」
 苦し紛れに睨み付けた幼さの残る美貌は、しかし、焼け爛れてなどいない。ただ、濡れているだけだ。
 殴られた衝撃と髪を引き掴まれている痛みに顔を歪ませながら、ジュリアンは器用にも瞳を瞠った。
「な、なんで……っ……おま、え、吸血鬼、だろ……っ」
 おまえは吸血鬼のはず。だというのに、なぜ聖水が効かないのだ。
 そう言おうとしたが、髪を掴まれたままのせいでうまく言葉にはならなかった。だが、相手にはこちらがなにを言おうとしたかは伝わったらしい。
 ルーは、にこ、と恐ろしく綺麗に微笑んだ。
「誰が吸血鬼だと?」
「おまえ、だ!」
 離せ、と髪を掴むきぐるみの前足を掴み返しつつもがくと、
「っ!」
 ふぅ、と。
 芳しい吐息を耳に吹きかけられた。
 全身が粟立ち思わず震えると、意地の悪い笑みまでも吹きかけられる。力が抜けそうになるところを、ぐ、と床についた左手で堪えた。
「いつ、誰が、おまえの血を啜った?」
「昨夜……っ……おまえが、だ! 俺、に噛み付こうとした、だろうっ!」
「そうとも。噛み付こうとした。だが、それだけだ。まだ啜ってはいないぞ。セシルが嫉妬の炎をメラメラと燃やしておまえを突き飛ばしたから、味見ができなかった。残念、残念」
「やっぱりそうか!」
「そうなのぉ」
 うふ、と髪を掴んでいない左の前足でくちびるを隠すようにして、ルーはかわいこぶって首を傾げてみせる。だがすぐに、す、とその青い瞳に冷たい色を宿した。そして、怖いほど真剣な声音で、
「だが、わたしは吸血鬼ではない」
 その静かに言い聞かせるような響きに、ごくり、と知らず、ジュリアンは喉に息を飲んだ。しかし、
「吸血鬼ではなく、吸血美少女だ」
「一緒だろうがっ! ってか、おまえ……っ! 瞳が青い?」
 ぽい、と玩具に興味をなくしたこどものようにあっさりと髪を手放されて自由を取り戻したジュリアンは、間近に睨みすえた相手の瞳の色彩が昨夜と違うことにようやく気付く。
 昨夜は確かに、鳩の血色をした最上級の紅玉のごとくであったはずの、双眸。
 それがいまは、矢車草の色に輝く青石のよう。
 おなじ青であっても、自分のものとは色の深みが違う。
 真紅もおそろしく美しかったが、この矢車草の青もまたひどく心を惹かれる。海よりも、空よりも深く、気を抜くと魂までも抜かれてしまいそうだ。
 いまさらのように、ざわり、と恐怖が足首を掴む。
 いま、この場には、ふたり。
 昨夜のように、噛み付こうとするルーを止める者はいない。
「爺さん、は?」
 近くにいるのだろうか、と扉のほうへと瞳を向けるが、光を拒むようにきっちりと閉ざされている。
「あぁ。セシルなら、棺桶に片足つっこんで寝ている」
「……それ……死に掛けてないか?」
「まったく人間というものは勝手だ。放っておくと、あっという間によぼよぼの老いぼれなってしまう。だが、心配はいらん。セシルはまだもうすこし元気だ」
「でも、棺桶って……」
「ただの皮肉だ。わたしは超豪華な寝台でふっかふかの羽毛布団にくるまって眠るのが好きだが、吸血鬼は棺桶で眠るものだと人間は決め付ける。だからその期待に答えて、わざわざ飾りとして置いてやっているのだ。わたしは吸血美少女なのだが、人間にはその違いがわからないらしい。嘆かわしいことだ」
 ジュリアンは、呆れたように肩をすくめてみせるルーと扉とを用心深く交互に見た。
 鍵は掛けられていない。だが、逃げ出すには少し距離があるか。
 相手は吸血鬼だ。おそろしく速い。とちゅうで捕まる恐れもある。だが、扉さえ開けてしまえば、陽光に怯んだ隙に逃げられるかも知れない。
 しかし、
「あぁ、ジュリアン。扉を開けるまえに、わたしのありがたい話を聞け。わたしは別におまえの血を啜りに来たわけではない。もちろん、その血を寄越すというのなら遠慮なくいただくが」
 こちらの思惑を見透かしたルーはくちびるを笑ませて言いつつ、きぐるみを脱ごうともがいた。しかし、すんなりとは脱げずに、あちらこちらにぶつかっては派手な音を立てて床に物を落とす。そのあまりの騒々しさに、つい、
「手伝おうか……?」
 と言ってしまうジュリアンだ。
「やっだぁ、司祭さまったらいやらしいっ!乙女の柔肌をじかに見たいだなんてっ!」
「ちょ、おまえ、黙れ! 静かにしろよ、外に聞こえたらどうする! こんなところを誰かに見られたら……」
「おまえの腹黒さがほかの誰に知れようが、わたしには関係ない。いや、むしろちょっといい気味? だがまあ、手伝え。そして聞け。おまえはこのたび、魔女の標的にされたぞ。おめでとう」
 ぐい、とふんわりとした手触りのきぐるみから抜き取った白い腕で、肩を掴まれる。そのついでのようにさらりと言われて、ジュリアンはうっかり聞き逃してしまった。
「なに。なんだって。いま、なんか不吉なことを言わなかったか」
 ひょい、と掴んだジュリアンの肩を支えに飛び上がり、一気に両足を抜いたルーが喉の奥で妖しく笑った。
「嬉しいだろう、ジュリアン。若い美男の苦痛に歪む顔とその生ぬるい血を浴びることが三度の飯よりも好きな魔女が、おまえに目をつけてくれたらしいぞ。昨夜、わざわざわたしが現れてやったというのにあっさりと引き下がったのが、そのいい証拠だ。あの魔女はそりゃあもう、しつっこい。だから、喜べ。このルー様がおまえを、つきっきりで魔女から守ってやる。囮(おとり)、ともいうがな」
 細くしなやかな腕で首を抱かれ、悪戯な手指に髪をかき上げられて、うなじのあたりが艶やかな吐息のまえに無防備に晒される。そうであるのに抵抗が遅れたのは、やはり、聞かされたその不穏な言葉のせいだ。
「あの魔女め。性格はすこぶる悪いが、見る目は確かだな。教会の連中は食っても、まぁ、不味くはないが、少々物足りない。だがおまえは……甘くて美味そうな匂いがするぞ、ジュリアン」
 直後、広いフォンテーヌの教会中に響き渡ったのは、ジュリアン司祭の情けない悲鳴。
 その悲鳴になにごとかと駆けつけた主任司祭が呆然と目のまえの光景に立ち尽くしても、うるさいやつだ、と突然ルーにふわふわな毛並みのかぶりものを頭にすっぽりとかぶせられたジュリアンは、くぐもった悲鳴を漏らしながらじたばたともがくしかなかった。
 

 

 

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