こぼれる笑み声は鈴の音のよう。
 それはなんとも楽しげに、雑多な音のない闇のなかに響き渡った。
 踏み出す歩みは軽やかで、足元に夜気が渦を巻く。
 細い背肩で、美しく輝く黄金の巻き髪がやわらかく弾んだ。
 じっ、とそのようすを硝子球のような感情のうかがい知れない瞳で見ていた写生帖を胸に抱えた少女が、しばらくいくと足を止め、幼い頬をわずかに膨らませた。
 幼い少女が足を止めたことに気付いた黄金の少女は、すこし先に行ったところで振り返る。
 女神かと見まがうほどに、ひどく美しい少女だった。
 だがしかし、闇に輝きをこぼしながら浮かび上がるその姿は、どこか男を酔わせる甘やかな毒を抱えるようでもある。
 その少女が小首をかしげながら、蠱惑的なくちびるを笑ませた。
「どうしたの、ミラ。膨れっ面だわ」
 楽しげに、訊ねる。
 すると、彼女よりも十ほど幼いだろう硝子球の少女がうつむいた。
 硝子球の少女もとても愛らしい。だが、やはり黄金の少女の美貌のまえでは、表情のない幼い彼女は引き立て役のような存在となる。
 その、ミラと呼ばれた硝子球の少女は、抱える写生帖を見下ろしてさらに頬を膨らませた。
「……リーナ、たのしそう」
「うふふ。ええ、楽しいわよ。新しい玩具をみつけたんですもの」
「でも……ミラのおともだち、またあいつにやられた」
 抑揚のない声音でいうミラに、リーナは宙を歩むような軽やかさで近づき、そっとその幼い頬を人差し指で軽くつつく。
「あら、そんなの、また描けばいいじゃないの。それとも……」
 それとも、とがらりと声音を低く変えたリーナは、眩い宝玉のような碧緑の双眸を、すい、と細め、
「わたしの邪魔がしたいのかしら?」
 吐息のように、甘い声音で言って、優美な手指でミラのあごを掬い上げる。
「……ちがう。ミラ、リーナのじゃましないもん」
 だからおいていかないで。
 そう言って、ミラがはじめて顔をゆがめた。みるみる大きな瞳に涙が溢れる。
 そんなミラを、リーナは愛しげに抱き寄せた。
「良い子ね、ミラ。愛しているわ。置いていくはずなどないじゃないの。だから泣かないでちょうだい」
 くすくす、と。
 鈴のような笑み声が、闇を振るわせる。
 甘い、甘い毒のように。
 
 
 
 
「ジュリアン司祭さま」
 呼びかけられて、午前のやわらかな陽光に満ちた内回廊でジュリアンは足を止めた。
 きっちりと着込まれた真白い法服の袖に施された金糸の刺繍が、きらめきを返す。
「なにか」
 にこ、と整った容貌を穏やかに笑ませると、声をかけてきた婦人はこどもを連れていることも忘れ、小娘のように頬を染めて恥じらった。
「あ、あの、ご相談したいことがありますの」
「着任したてのわたしにできることがあるのなら、どうぞ」
 面倒くさいな、と思いつつも、ジュリアンはそのような様子は微塵も見せない。『見目良く清廉な司祭』らしく、そっと青い瞳を伏せた。
 だが、そのときだ。
「わぁ〜」
 婦人のスカートの端を握り締めていた洟を垂らしたこどもが間の抜けた声音を吐き出し、ジュリアンを通り越して彼のほんのすこし後ろを見上げる。すると、その母親までもが、あら、と驚いたような顔をしておなじ場所を見つめた。
「……え」
 なんだ、と思った直後、その気配に気付く。
 さきほどまでは誰もいなかったはず、なんの気配もなかったはずの、背後。だが、いまはそこに何者かの気配があった。
 母子の反応から、昨夜見たような人喰いの魔物である可能性はないだろう。
 では、いったいなに。
 眉をひそめながら、ジュリアンは振り返ろうとした。とたん、
「っ!」
 ぼす、となにかやわらかく大きなものが左肩に乗せられる。
 視線を動かすと、乳色をした毛並みが見えた。
 犬、か。いや、それにしては前足がデカすぎる。
 そう思いつつおそるおそる振り返り、
「な……っ!」
 ジュリアンは、思いきり顔を引き攣らせた。
 そこにいたのは、巨大な犬だったのだ。いや、正確には、巨大な犬のきぐるみ、だ。
 つぶらな黒い瞳が左右でほんのすこし位置がずれてはいたものの、こどもが飛びついて喜びそうなほど愛らしい姿。
 だがあまりにも異様だった。
 まず、なぜそんなものが教会にいるのかがわからない。
 つぎに、無気力。
 そう、きぐるみは、そのむっくりとした愛らしい姿とはかけはなれた、おそろしいほどの脱力感を全身から放出しつつそこに立っていたのだ。
 ジュリアンの左肩に置いた左の前足はそのままに、だらりと右前足を垂らし、ついでに頭を重たげに傾げさせ背中を軽くまるめた格好。
「な……ん、でしょうか」
 なんだこいつは、といいかけるところを無理やり飲み込んだジュリアンだ。
 すると、きぐるみがなにかを言った。だが、もごもごと聞こえるだけで、内容が聞き取れない。
「えー……すみません。なにを仰っているのか、聞き取りにくいのですが」
 頬を引き攣らせながらそう言ったとたん、
「ひっ!」
 がしっ、ときぐるみの左の前足に頭を鷲掴みにされた。
 きぐるみは、どすの利いた低い声音でなにかを言ったらしいが、やはりそれは聞き取れない。いや、聞き取れるかどうかというまえに、きぐるみはすぐさま、くるり、と方向転換したのだ。ジュリアンの頭を鷲掴みにしたまま。
「ぎゃー」
 そのまま引きずられるように、奥の暗がりへと連れて行かれる。
 あたたかな内回廊に残された母子は、なかば呆然とそれを見送り、
「おかあちゃぁん」
「あら、なあに」
「しさいさまが、ぎゃー、ってゆったぁ」
「見なかったことにして、帰りましょう」
 そのまま何事もなかったように仲良く帰っていった。
 そして、陽のあたらない一室へとほとんど投げ込まれるように押し込まれたジュリアンは、またしてもきちんと整えていた髪を乱しながら、目のまえに尊大にそびえるように立つきぐるみを見上げる。
「な、なんなんだおまえ」
 息まで乱しつつ言うと、きぐるみは両の前足でもって頭を掴み、
「八時間三十四分二十一秒ぶりだな、ジュリアン」
 そのまますぽっと脱ぎ捨てた頭を床に転がして、その下から現れたちいさな頭を振りつつ言った。
 こぼれ落ちたアッシュピンクの髪がしっとりと汗に濡れて、やや上気したやわらかな頬に張りつく。
 現れたその、つい昨夜見知ったばかりの美貌に、
「で、出たっ!」
 思わず後ずさるジュリアンだった。
「出た、とは失敬なやつだな、おまえは。それがおまえを守りに来てやった正義の味方に対する台詞か」
 にやり、と薄紅色のくちびるを笑みのかたちに歪め、きぐるみを着たままの腰に両の前足を当てて見下ろすのは、ルーと名乗る魔物狩りの少女。
 
 

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