「なんつーことしやがるんだ……」
左右でほんの少し位置がずれている、つぶらな瞳。
黒いそれが、ぼんやりとこちらを写しているのを眺めながら、ジュリアンは背後を振り返らないまま、なかば呆然とつぶやいた。
いま、毛並みやわらかな犬のかぶりものを頭にすっぽりとかぶせられて気を失っているのは、ジュリアンの情けない悲鳴を聞き駆けつけた主任司祭だ。
ルーの仕業である。
一旦は梁へと軽々と飛び上がり身を隠していたのだが、ジュリアンを犬のかぶりもののなかから救い出したあともなかなか立ち去らない第三者の存在に苛立ったらしく、ルーは埃を巻き上げるどころか風ひとつ起こさないほどの速さで梁から下りてくると、あちょっ、などというわけのわからない掛け声とともに主任司祭の首筋目掛けて手刀を振り下ろしたのだ。
結果、主任司祭は呻く暇もなく気を失い、そのまま犬のかぶりものをかぶせられた状態で壁に寄りかかるように座らされている。
「なに、とはなんだ」
ふ、と笑みながらであるらしいその言葉に振り返ると、しなやかな身体の線を強調しながらも動きやすいようにつくられた黒いドレスの少女は、きぐるみの胴体から長細いなにかを取り出していた。
昨夜化け物を一刀両断にした、あの長剣だ。
思わず頬を強張らせると、肩越しに振り返ったルーが妖しい笑みを浮かべた。
わずかに乱れた、ゆるく襞(ひだ)をとって膝上へと流れる絹の裾を、さっと払う。
たったそれだけ。
それだけの仕草で、この身を取り巻く世界の明度が一気に下がったような、そんな錯覚を覚えた。
心臓が跳ね上がる。
とっさに、後ずさった。
それを見た少女の薄紅色のくちびるが、笑みの形につりあがる。
「ジュリアン。殺していないだけ、ありがたく思え。そいつの目が覚めたら、おまえがうまくごまかせばいい。『まるで悪魔のしわざであるかのような殺人事件に沈む街を明るくするため、ジュリアン司祭、あなたはきぐるみを着て慈善活動をするつもりだったのですね』などと本気で喜ぶような、温室育ちだ。簡単だろう、腹黒いおまえには」
主任司祭の口調どころか、声音さえも完璧に真似をしたルーが、くつくつと喉を鳴らして笑いながら言った。
ゆっくりと、歩み寄られて、さらに後ずさる。
「わたしが、怖いか」
「うーん……微妙に」
「微妙、とはなんだ。こんなに可愛くて美しいんだぞ。腰を抜かすくらい怯えるか喜ぶか、どっちかにしろ」
無茶な言い分だが、しかしルーが美しいのは、認める。確かに、見た目は神の最高傑作かと思えるほどの美貌で、個人的には司祭である自分がそれはもう嫌になるくらい好みだ。
だが、たとえ見た目がそうだとしても、実のところは悪魔かと思えるほどの、とんでもない暴力女。
しかも、ただの少女などではない。
彼女は、人の血を糧とし長い時のなかを生きる、闇の住人。
吸血鬼(ヴァンピル)。
正直、そんなものが存在するとは、つい先日まで思いもしなかった。誰かがつくった想像の産物だと、そう思っていた。
ジュリアンは司祭であると同時に祓魔師(ふつまし)だ。だから、『まるで悪魔の仕業のようである惨たらしい殺人事件』の調査のために、王都から派遣されてきた。
しかし、ほんとうに化け物が相手だとは思わなかったのだ。そもそも、悪魔祓いが行えたとしても、悪魔だとか化け物だとかに出くわしたことはこれまで一度もなかった。神の存在は一応信じてはいるので、そうなると悪魔などの存在も信じるのが当然なのだろう。だがそれは、ひとの心のなかに宿るものだと思っていたのだ。
だが、この目で見てしまった。
人を喰う醜い化け物と、その化け物を圧倒的な速さで一刀両断にした美しい吸血鬼を。
「おまえも変わっているな」
不意に、どこか呆れたように笑われた。
「悪魔だとか魔物だとか。そんな存在、露ほどにも信じていなかっただろう? だというのに、おまえは……こちらが拍子抜けするほどにすんなりと、それが存在する、という事実を受け入れる。昨夜も、逃げなかったな」
「まあ……なんつーか……」
どう答えたものか、とわずかに口ごもる。すると、
「だが、事実を受け入れたなら、わたしの言葉も受け入れろ。おまえは、人の群れのなかにあるべきではない」
こちらの答えを待たず、ルーが青石の瞳を光らせて低く言った。
口調はそのまま。しかし、その奥底には冷徹な響きを滲ませて。
まるで、心臓に爪鋭い五指を差し込まれたかのようだった。
ぞっ、とそこから全身に怖気が広がる。
思わず震えるように触れていた耳飾りを放した拍子に、ちり、とそれが鳴り、傷ついた指先に鋭い熱が走る。
ちら、と瞳だけを動かして、ルーはその指先を見やった。
「ジュリアン。軽々しく血を流すなよ。おまえの血の匂いは、ショコラのようにひどく甘い。魔物にたかられて、そこらじゅう齧られても文句など言えない」
「…………」
「気を引き締めるんだな。このルー様が守ってやるとはいえ、おまえ自身がたるんでいてはどうしようもない。わたしのような美肌を持つ乙女にとって紫外線は天敵だが、おまえを狙っている魔女は違う。昼夜問わず、ところ構わず襲ってくる変態だからな。まわりも、迷惑する」
そう言いながら、すい、と細い手指を伸べてくるのが、身体の横に垂らしたこちらの傷ついた手指。
とっさに、その手を振り払った。
しかしルーは、眉を寄せるどころか澄ました顔で鼻を鳴らす。
「そう毛を逆立てた子猫のように警戒することもないだろう。よその男を齧るな、とうるさくセシルに言われてきているから、心配しなくとも舐める程度でしか味見するつもりはない。って、子猫、だって。自分で言っておきながら笑えるな。おまえのどのへんが子猫なのだろうな。あー、気持ち悪い」
笑える、というわりには表情を変えることなく、ルーは抑揚なく言った。そして、
「油断、するなよ」
一転して、凄みのある笑みを美しい顔に浮かべる。
直後、
「ジュリアン司祭さまは、こちらにおられますか」
扉の外から、声を掛けられた。
幼く澄んだ、少女の声。
魔女から守ってくれる、というが、しかしいまはルーから離れたかった。
なぜなら、手指がひりひりと痛むのだ。
だから、ここに、とすぐさま返事をして扉に手を掛けた。
しかし扉に手を掛けようとして、ふと振り返る。だが、すでに陽光を嫌うルーは姿を隠していた。
「……でも俺は、祓魔師だから」
弱々しく聞こえもするそのつぶやきを、ルーが聞いているかどうかは、知れない。
だが、ジュリアンは自嘲気味に笑いながら扉を押し開け、薄暗い部屋のなかに外の空気と清々しく煌く陽光を招き入れた。