気がつくと、それまであった景色がまったく別のものにすり替わっていた。
 人で賑わう街なかから、荒涼たる原野に。
 いや、目のまえの景色がすり替えられたのではなく、自分がミックランからどこかべつの場所へと移動したのか。
 綺翠(キスイ)は軽い目眩のなか、そうと知る。
 すぐかたわらでは、地面と垂直に立てた杖を手にしたままの顔色の良くないグラスランドが、その場に膝をついていた。
 あたりには、魔法を発動した名残である白金の火花が、す、と輪を描きつつ離れていく風のなかに散っている。
「……ここは?」
 毛先に絡み付く魔法の残滓を、ゆるく首を振って払いつつ、ここはどこだ、と訊ねると、額の汗を拭ったグラスランドがくちびるを力ない笑みに歪めた。
「カナンリルド国内です。とは言っても、王都アルファニアからはずいぶんと離れたところですけれど。せいぜい、国境の龍骨山脈を越えたあたり……龍の顎(あぎと)のあたりでしょうか」
「このあたりまでは、来たことがあるみたいだな」
 ちら、と翡翠の瞳を向けると、わずか、もともと大きな茶色い瞳がさらに瞠られる。
 そして、乾いた草の上に片膝をついたまま、グラスランドは苦笑を浮かべた。
 周囲には、孔雀緑で細かい模様が描かれた小石が散らばっている。
 その色はグラスランドの爪を染めるものとおなじであったし、その模様は彼の杖に彫られたものとよく似ていた。
「ええ。実は、何度か。けれど、このあたりが限界です。この先はマナの乱れが酷くて、僕ひとりではどうしようもありません。ここには……お察しのとおり、以前来た際に移動魔法のためのしかけを施しておきました」
 ふ、と息をついて立ち上がったグラスランドが、法服の裾を払って整える。その拍子に、右の手首に巻かれていた鳥の羽根の腕輪が、ぷつ、と切れて宙に舞った。
「移動はなんとかできましたが……魔力の消耗は予想以上でしたね。だから、いま、魔物に襲われるのは非常に困るんですけどぉ。あうぅ、困ったなぁ」
 白い斑点の入りの茶色い羽根が舞う空が、暗くなる。
 乾いた空気のなかに、異様な臭いを嗅ぎ取った。
 重く、目に見えない力が圧し掛かってくる。
 足もとからは、細かく不気味な波動が這い上がってきた。
 綺翠は、内心で舌打ちすると、指が白くなるほど強く杖を握り締め仔うさぎのように震えるグラスランドを、庇うように立つ。
 まわりを、異形のものたちが取り囲みつつあった。
「どうする」
「うぅん、どうしましょうか。僕らの魔力の匂いにつられてきたようですけど、彼らには善悪なんてありませんし……でも、餌になるのは嫌だなぁ。でもでも、逃げちゃうのは無理っぽいし」
「僕ら?」
「もちろん、僕と綺翠ですよ。呪いにかかっている綺翠も、彼らにとっては餌の対象なんですよ。あはは。僕は不味いですよぉ、なぁんて言ってみたりして」
 青い顔のグラスランドが弱々しく言うと、足もとから振動が湧き上がり、ぼこり、と地面が隆起する。
「……おまえ、覚えていろよ。あとで、絶対殴る」
 直後、地面から炎が噴き出した。
 とっさにグラスランドに体当たりをしてわきに押しやった綺翠は、腹のあたりに痛みを伴う熱を感じる。それでも反撃のために身を返そうとするが、獣の身体での戦いなど経験がない。わずかに、足がもつれた。
 そして、こちらの喉を掻き切ろうと炎のなかから伸ばされる爪を、視界の端に見る。
「綺翠っ!」
 
 ガツ……ッ
 
 振り下ろされた爪に肉を裂かれる寸前、その爪を桃花心木材の杖が阻んだ。
 地面に尻餅をついたままのグラスランドが投げた杖は、力が入っていないせいであっけなく叩き落される。だが、それでも綺翠が体勢を立て直すにはじゅうぶんな隙を、相手に与えた。
 綺翠は地面を蹴り高く跳ぶと、炎のなかからこちらを見るぎょろりと光る目玉に向けて、返礼とばかりに爪を振り下ろす。
 片目を潰された魔物が上げる細長い悲鳴を聞きつつ、綺翠は炎に毛並みを焼かれるそのまえに、くるり、と宙で身をひねって着地した。そして、間をおかずにふたたび飛びかかろうとする。だが、
「っ!」
 頭上に聞こえた重々しい羽音と、覆い被さるように現れた影に、とっさに左へと跳んだ。
 剣のような尾で貫く標的に逃げられた翼を持つ魔物が、うるさく喚く。
 いまや空は、魔物の大群で黒く塗り潰されていた。
 そして、汚泥のような表面を持った魔物が、ぼたり、ぼたり、といくつもこちらを取り囲むように落ちてくる。
 群れで走ってくる、鮮やかな橙色の鱗を持つ、頭がおおきく身体がちいさいもの。
 緑の涎(よだれ)を垂らす、無数の棘をあちらこちらからはやしたもの。
 人の身体が溶け崩れたような、肉の塊。
 蠢く獣毛に覆われた、臭いのひどいもの。
 いったいどれほどの魔物がいるのか。
 数えることすら、できない。
 そのような暇など、ない。
 魔物たちは、こちらの肉を食い破り、血を啜り、魔力を取り込んでしまおうと、徐々に距離を詰めてくる。
「うわーん。どうしようっ」
 まだしっかりと足腰に力が入らないらしいグラスランドが、投げた杖を這うようにして拾いつつ泣き言を言った。
「泣くな、魔法使い!」
 伸ばされる爪や触手を鋭い牙と爪で防ぎながら綺翠が怒鳴ると、グラスランドは洟(はな)を啜る。そして、手にした杖を地面に垂直に立て、
「怒れ大気の渦」
 まずは一節、発した。
 その音に呼ばれて、孔雀緑の魔法文字らしき模様でつくられた円陣が、じわり、と足もとに現れる。
「襲いくる闇を圧し、巻き上げよ。我は起こす、偉大なる風の塔」
 呪文の詠唱が終わると、ふわ、と孔雀緑の魔法文字が宙に溶けるように浮き、風となった。
 風はすぐにふたりを中心に外側へと激しく吹き、魔物たちを押し流す。さらに、あちらこちらで渦を巻き、そのなかに閉じ込めた魔物ともども空高く上がっていく。
 はるか上空で、魔物たちの悲鳴が響いた。
 しかし、地上でもグラスランドが情けない悲鳴を上げる。
「うぅ、僕、もう……だめぇ」
 渦をつくっていた風が、ふ、と四方へと散って消えた。
 直後、巻き上げられた魔物たちが、地面へと激しく叩きつけられる。
 だが、それで動けなくなった魔物は、少ない。
 落下の途中でうまく翼を動かして、地面との衝突を回避したものもあるのだ。しかも、はじめにこちらを襲ってきた魔物などは、
「煽ったな」
 纏う炎の勢いを、さきほどよりもずっと増してしまったようだ。
「す、すみません。でもあの、僕、風しか操れない……」
 グラスランドがおおきな瞳に涙を浮かべるあいだに、勢いを増した魔物は身体を膨らませ、炎の塊を立て続けにこちらへと向かって吐き出した。
 その塊をすばやく避けるのはいいが、しかし、炎が乾いた草に燃え移ってしまう。
 燃え広がる炎に、怯えたいくらかの魔物が逃げ出す。だが、このままではこちらも焼け死んでしまう。
 どう攻撃したものかと綺翠が考えていると、
「綺翠、これちょっと持ってもらえませんか。重くって、動けない」
 
 
 
 
  

 

 
 

 

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