粉塵と血煙の舞う戦場の、その匂いが忘れられない。
 怒号と悲鳴のなかで滾(たぎ)ったこの血が、許せない。
 奪われたものと、奪ったもの。
 それがあまりに多すぎるからこそ、故郷を捨てた自分。
「……なぜ、俺だ」
 綺翠(キスイ)がつぶやくように言うと、え、とグラスランドは声をもらした。
「なぜ、俺なんだ。これは……ほんとうに、偶然なのか」
 出会ったのは偶然か。
 戸惑いながら、問う。すると、
 視線のさきで、す、と茶色く大きな双眸の奥が、夜に沈む湖面のように静まる。
 その瞳に、ぞくり、と全身の毛が逆立ったような気がした。
 そして、嘘を紡がず魔術を歌うくちびるが、
「この世界に、偶然なんてものはありませんよ」
 とゆるく、微笑む。
「あるのは、必然。そしてそのすべての事象には、それぞれなんらかの理由というものが必ず存在します。けれど必然を偶然と思うのは、ただ、その理由に……気付いていないだけ」
 その言葉に、ちり、と漆黒の毛先が焦がされる。
「綺翠。あなたは転んだ僕に手を貸してくれた。それに、意味がないと思いますか。僕は、思いません。だって、そうでしょう」
 そうでしょう、と言った魔法使いが、重たげに魔剣ラティエスを手に取る。
「だって、綺翠はこの魔剣を軽々と手にした。僕には、こんなに重いのに。だから僕は、あなたに決めたんです」
「な、に」
「それに……これまで、僕がなにをしてもただの魔力の塊でしかなかったあの赤い石が、僕が綺翠を呪ったあのとき、燃えたんですよ。凍えて固まっていたあの方の心が蘇り、ほら、そうして綺翠の身の内に働いているでしょう。綺翠も感じるはずですよ、あの方の魂の欠片を。だから僕は、あなたに話したんです」
 
 それが、あなただったから。
 
 奪ったものの重みで終わらせることさえできない、この命。
 胸の空洞に風が吹いたような、そんな気がした。
 それに、確かに感じるのだ。
 この身に働く魔術の、その鼓動を。
 顔も、なまえさえ知らない炎の、痛みを。
 その、匂いを。
 だから、
「……いいだろう」
「え」
 ただ流れることさえも罪だというのなら。
 行け、とこの背を押すのなら。
「行ってやる。カナンリルドへ」
 
 そこに、理由があるのなら。
 
 夜の帳にちりばめられた、宝石の瞬き。
 とても美しい空だった。
 涙が、こぼれそうなほどに。
 たぶん、忘れないだろう。
 この、熱さを秘めた静かな空と、
 そして、
 どこか安心したように笑みこぼした、グラスランドの顔を。
 
 
 
 
 クラウディスとカナンリルドとのあいだには、ミックランがある。
 ミックランはカナンリルドほどではないにせよ、魔術の盛んな国だ。
 お陰で多少変わったふたり連れが、つまり、魔法使いと人語を解す闇色の魔狼が、人で溢れる街中に真昼だというのに堂々と現れても、たいした騒ぎにはならなかった。ただときおり、ちいさな子どもに、
「わんわんー」
 だの、
「えーん。あのわんこ、こわいー」
 だのと、指をさされるくらい。
 腹が立つのは、子どもに手招きされたり泣かれたりするたびに、となりでグラスランドが失笑することだ。
「笑うな」
「で、でもっ、だって、ぷ……く、ふふっ」
「斬るぞ」
「ぷはっ! どうやってですかっ! あははっ」
 そして、ついには腹を抱えて笑い出す。低く唸りつつ、じろ、と睨み上げるも、顔を真っ赤にしたグラスランドは、度胸があるのかただ鈍感なだけなのか、往来のまんなかで笑い続けたままだ。
「おいおい、そこのお若い魔法使いさん。そんなに笑っちゃあ、お連れの狼さんが気の毒だよ」
 挙句、物売りの男からは同情されてしまう。
「かわいそうにねぇ。また厄介な呪いを受けちまったんだねぇ」
 さらには、呪(まじな)い札やらを籠に入れて売って歩く老婆のしわだらけの手に、よしよし、と頭を撫でられた。
「……おい。いいかげん、呪いを解けよ。一緒に行ってやる、と言っただろう」
「ふ、ふふっ……え? あれ。それは、解き方知らない、って言いませんでしたっけ、僕」
「言った。だが、それならなぜ、解き方も知らないような呪いを俺にかけたんだ」
「僕は獣化の呪いなんて、かけるつもりはなかったんですよ? ほんとはこう、眉毛とか鼻毛とかが、盛大に伸び続ける呪いとかにしようと思っていたんです。ほんとに」
「…………」
「でも、カナンリルドに行くのならあの方との関わりがあるほうが良いと思って、あの赤い石を媒体に魔法を発動したんです。そうしたら、あの方の魔力の影響なのか、毛が伸びる呪いが獣化の呪いになっちゃって。獣化魔法って、結構複雑な高等魔術なんですよ。ね。びっくりですよねっ」
 びっくりなのは、会って間もない人間に眉毛や鼻毛が伸び続ける呪いをかけようとしていた、おまえの性格の悪さだ。
 綺翠はそう思ったが、思っただけで口にはしない。口にしたところで無駄だろうし、疲れるだけだ。
 そうでなくとも、人ごみは疲れる。
 雑多な音と、匂い。そして、色。
 すべての感覚が人の姿であったときよりも、鋭いのだ。
 それに、なによりも、
 眩しい陽光が降り注ぐなか、こんな姿を人の目に晒すなど。
 あってはならないことであるはずだというのに。
 そう思うと、心が重く沈んだ。
「カナンリルドには、どうやって入るんだ」
 それでもはやく街を出てしまいたい気持ちをなんとか抑え、そう溜息まじりに、携帯用の食料を買い込んでいるグラスランドに訊ねると、
「カナンリルド……?」
 グラスランドから金を受け取った店の主が、息を飲んだ。
「まさかあんたたち、カナンリルドに行くのかい?」
 とたんに、賑やかであったはずの往来が、水を打ったかのように静まり返る。
 みなの視線が、痛いほどに集中していた。
 しかしそれに、にっこり、とグラスランドは笑み返してみせる。
「はい。カナンリルドに行きます」
 すると、小波のように足を止めた群衆のなかに動揺が広がっていく。
「……死ぬつもり、か」
 どこからか、声がした。だが、それにもグラスランドは平然と答える。
「いいえ。死ぬつもりなんて、これっぽっちもありません」
「あ、あんた、力のある魔法使いなのかい?」
「へっぽこ魔法使いです」
 にこやかに言い切ったグラスランドが、す、と石畳に落ちる彼の影のように立っていた綺翠に寄る。そして、
「でも、行きます。だから、捕まるわけにはいかないんですよね。というわけで、これにて失礼を」
 手にしていた桃花心木材の杖を、きり、とまわした。すると、
 風が、巻き起こる。
 そして綺翠は、こちらを包み込むその風の向こうに、見覚えのある青い上衣を着た男たちを見た。
 クラウディスの兵士。
 そうと認識したとき、呪文の詠唱をすばやく終えた魔法使いが、に、とくちびるを歪める。
「クラウディス王にお伝えください。約束は守らなくてはならないもの、なんて子どもでも知っていますよ、って」
 くすくす笑う、魔法使いの声音。
 その直後、風とともに、視界が白く弾けた。
 
 
 
 
  

 

 
 

 

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