「魔剣ラティエスが持つ魔力は、とても強いものです。綺翠(キスイ)。いま、あなたもそれを、いまは魔法が作用するその身でもって、感じたはず。これほどに強い魔剣が、ただのお飾りであっていいはずがないんです。そして、このラティエスが行くべき場所は、カナンリルド。あの方が愛された国です。だから……まったく関係がないとは、僕には思えなくて……」
「その、クラウディス王に魔剣を預けたという魔法使いの、なまえは?」
 ぐ、と込み上げてくる虚しさを押し殺しながら、綺翠は訊ねた。
 それは、ほかに意識を逸らしてしまいたいという思いから訊ねたことではあったが、だがもしも、その名が、グラスランドのくちびるからこぼれてこないのだとするのなら。
 知っているはずのなまえがわからないのだとするのなら、魔剣ラティエスと赤い石は確実に、繋がる。
 しかし、
「ザイード・アルノー」
 グラスランドは力なく笑んで、そう答えた。
「ラティエスを作った魔法使いと、あの方は……別人です」
 別人、と聞いた綺翠は牙の隙間から、そうか、と溜息のようにつぶやいた。
 そう簡単にはいかないというわけか。
 思うとおりには、やはり、いかないものなのか、と。
 それに。おそらく、その可能性ならば、とうにグラスランドは考えただろう。
 この魔法使いは一見頼りなく見えるが、実は決して見かけどおりの性格ではない。こうして巻き込まれている自分が、その証明だ。
 炯々(けいけい)と光る翡翠の双眸でもって見据える綺翠に、しかしグラスランドは気付いているのかいないのか、子どものように顔を歪めてちいさく首を振る。
「だから、余計に、ラティエスがカナンリルドへ行かなくてはならない理由が、わからないんです。でも、もしかすると、カナンリルドにかけられた呪いを解く鍵となるかも知れないと、そう思って。確かに、魔力を持ち魔法も記憶している魔剣は、意思がない分、扱いが難しいものです。けれど、このラティエスの性格は比較的穏やかなものだから……悪意から生まれたものではないと、思うから」
「……なあ。いま、さらっとおかしなことを言わなかったか」
「えっ。なんですか」
 低い声音で問うと、グラスランドが軽く目を瞠った。
「なにが、呪われてるって……?」
 静かな夜だ。
 耳を澄ませば、木の葉が囁きあう声すら聞こえてきそうな。
 魔法使いは、涙が浮いたままの大きな瞳を瞬かせた。
 その、睫毛の音すら聞こえてきそうな、静寂。
「えっと……綺翠?」
 しばらくの静寂のあと、グラスランドは小娘のように、首を傾げて曖昧に笑ってみせた。
「俺のことではなくて。いま、言っただろう。その魔剣が、なににかけられた呪いを解く鍵になるかも知れない、って?」
「え、ええっと……カナンリルド、かなぁ……」
「それで。おまえは俺に、どこについてこいって?」
「カナンリルド、ですね。え、えへ」
 グラスランドがそう答えた、つぎの瞬間、
「いだだだだだだだっ、ふ、踏んでます! 踏んでますよ、綺翠! 気付いてないかも知れませんが、爪が思いきり食い込んでますっ!」
「……わざとだ」
 さっ、と立ち上がった綺翠は、グラスランドの頭を右前足で踏みつけた。
「と、頭皮にものすごい刺激がぁっ!」
「そのまま禿げろ」
「ひわぁ、嫌ですぅ。この若さで禿げるなんて、絶対嫌だぁ! まだ恋だってしてないのにぃ!」
「知るか」
 悲鳴を上げるグラスランドの瞳に、悲しみとは別の涙が浮かんだ、そのとき、
「お客さんっ!」
 バタン、と部屋の扉が開け放たれる。
 現れたのは、宿屋の太った主人だ。両手を腰に当て、額には青筋を浮かせている。
「あんまり騒がれちゃ、ほかのお客さんに迷惑が……って」
 主人は、言いかけた言葉をとちゅうで途切れさせ、じっとりと細めた目で、はっ、と動きを止めたこちらを眺めた。そして、
「犬なんて、連れて入られちゃあ困るんだがね! いますぐ、出て行ってくれ!」
 犬を連れてさっさと出て行け。
 そう言い放った宿屋の主人が、足音荒く階下へと戻っていった、そのあと。
「…………犬、じゃ……ないと思いますが。ねえ、綺翠。狼ですよねぇ?」
 頭からだらだら血を流しつつ小首を傾げるグラスランドの言葉に、綺翠は無言でさらに爪を立てる。
 魔法使いの悲鳴が響く、夜。
 天(そら)を、音もなく星が流れた。
 
 
 
 
「カナンリルドのことを話せよ」
 街道から南へとはずれたところに広がる深い森の、その奥。
 打ち捨てられた神殿の古い石柱やら土台やらがところどころに残る、すこし開けた場所だ。
 黒い木々に縁取られる満天の星を見上げていると、なぜか胸の奥底からなにか大きな、切ない塊のようなものが迫(せ)りあがってくる気がする。だから、やわらかい草の上に伏せた綺翠は、組んだ前足の上に顎を乗せ、目を閉じながら、言った。
 すると、大きな鞄のなかをなにやら探っていたグラスランドが、ふと手を止めるらしい。
 そのまましばらくなにも発しないので、綺翠が薄く目を開けそちらを見やると、グラスランドは赤く燃える火を静かに見つめていた。やがて、
「……僕があの赤い石を拾う、すこしまえです」
 揺れる炎に照らされた魔法使いは、頬に濃い影を落としてつぶやくように言う。
「カナンリルドは、西大陸の華、と呼ばれるほど美しく豊かな国でした。魔術によってさまざまな仕掛けが施された都は、いつも大勢の物見客で賑わい、けれど騒々しい客引きの声の合間にさえ、麗しき女王を賛美する歌が絶えず聞こえてくるような。なかでも、眩しい陽光と色鮮やかな花々に彩られた、絢爛たる白き王宮『蟻塚』は、魔王に魂を支払ってでも一見する価値あり、と諸国でも謳われるほどの。けれど……十年とすこしまえ、内乱があったそうです」
「曖昧な、言い方だな」
「ええ。わからないんです。当時カナンリルドを治めていた美貌の女王が、臣下に裏切られて廃されたらしいということなんですけど……それ以上のことは、なにも。カナンリルド王宮『蟻塚』が、分厚い氷に閉ざされてしまったんです。臣下や魔法使い、『蟻塚』のなかにいた多くのひとたちと、ともに」
 夜闇のなかに、火の粉が舞った。
 しかしそれはすぐに夜気に冷まされ、灰となって鼻先をかすめる。
 その匂いが、胸に刺さるようだ。
「誰も、『蟻塚』からは出てこないし、近付くこともできないんです」
「近付くことも?」
「そうです。氷の呪いのために『蟻塚』には高密度で水霊が集められているのですが、そのせいでカナンリルドに満ちるマナの均衡が崩れてしまい、周辺の精霊たちが凶暴化しているんです」
 西大陸の華であるカナンリルドの中枢たる『蟻塚』が呪われてしまえば、当然、諸国にも少なからず影響が出る。
 その瞬間『蟻塚』にいなかった一部の廷臣たちが采配を振ろうとするものの、彼らも真実を知らない状態。出どころの知れない呪いへの恐怖心も手伝って、内政は混乱の極みにあった。外交どころではないのだ。
 この事態に、諸国からも腕に覚えのある戦士やら高位の魔法使いやらが調査に向かったが、襲い掛かる無数の魔物と強力な呪いに阻まれ、氷に閉ざされた『蟻塚』に足を踏み入れた者など誰ひとりとしていなかった。
 そもそも、女王は魔王と添う、などと噂されるほど、カナンリルドはどこよりも魔術の神秘に近しい国。『蟻塚』には強力かつ高名な魔法使いたちが、多く仕えていた。
 そうであるにも関わらず呪われたのだ、恐怖を覚えない国があるはずもない。
 しかも恐怖というものは、時間の経過とともに増大する。それが、得体の知れないものであるから、なおのことだ。
 結果、『蟻塚』はおろか、カナンリルドという国の名を口にすることすら恐ろしい、とみなが口を重く閉ざすようになって、久しい。
 西大陸の外からやってきた綺翠が耳にした、美しい国、とは、恐怖心の裏返しなのか、はたまた祈りの言葉であるのか。
 そのどちらであったとしても、いま確実にわかることといえば、カナンリルドに降りかかったものがなんであるのか、それを知る者が『蟻塚』の外のどこにもいないということだけだ。
「僕ひとりではたぶん……『蟻塚』には辿り着けないでしょう。でも、知りたいんです。行きたいんです。どうしても。だから、綺翠。一緒にカナンリルドに行ってください」
 ふたたびそう頼む魔法使いの、まっすぐにこちらへと向けられたその双眸が、踊る炎に照らされて煌く。
 それはいっそ痛々しく思えるほどに、まっすぐで。
 そのひたむきな強さに、虚しい雪だけを降り積もらせるこの胸が貫かれてしまいそうで、綺翠は思わず目を伏せた。
 
 
 
 
  

 

 
 

 

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