「どういう、ことだ」
 わずかな音を立てて、角灯のなかの蝋燭に炎が蘇る。
 揺れる、火影。
 その影に漆黒の毛先を弄られ、ひり、と胸のなかに痛みが走った。
 どういうことだ、と問うと、グラスランドは濃い影を頬に落としつつうつむく。そして、握ったその左の手指を、開いてみせた。
 赤い砂は、不思議に高い金属が震えるような音をちいさく立てて、窓からの風に攫われる。
「石が……壊れてしまったんです」
 そう言ったグラスランドの声が、震えた。
 石とは、この身体を獣のものにつくりかえた魔法に使用されたもののことか。
 それだというのなら、確かにあの石は、魔法の完了とともに崩れ落ちてしまった。
 それを憂う理由が、わからない。あの石は魔法の道具ではなかったのか。
 だが、
 炎の鱗粉を闇に撒く、蝶。
 それを見て、この魔法使いは一瞬、苦しげな顔をしなかっただろうか。
「話せよ」
 綺翠は深々と溜息をつくが、しかし、その場に腰を落とした。
 どうせ、自分には行くあてなどない。
 帰る場所も、ない。
 ただ、時を持て余している。
 それすらも、罪であるというのなら。
「聞くくらいなら……聞いてやる」
 闇とおなじ色のたっぷりとした尾が、さっ、と促すように、板張りの床の上を掃いた。
 すると、グラスランドが迷子の子どものような顔を上げる。
 じっ、といまにも涙が溢れそうなその瞳を見返すが、グラスランドは目を逸らさない。
 真意を探ろうとしているのはこちらだというのに、それがあまりにまっすぐなものであるために、むしろ綺翠のほうが後ろめたいような気持ちになった。それに内心で舌打ちをし、先に目を逸らしてしまおうか、とそう思ったとき、
「あの石は、特別な石だったんです……」
「特別?」
「はい。石を拾ったのは、十年まえです。家の畑で、ミミズを引っ張り出して遊んでいたとき、見つけました。手に取ってみると……南に咲く、花の香りがして……」
 
 あの石を見つけていなければ、自分はいまここにはいなかっただろう。
 声が、聞こえたわけではない。
 あの石を見つけていなければ、魔法使いではなく、父や祖父のように農夫になっていただろう。
 なにかを見せられたわけでもない。
 けれど、土に汚れていた石を手にしたとたん、なぜだか涙がこぼれた。
 誰かの痛みが胸の奥に染みたような、そんな気がした。
 石がなんであるのか、なぜ家の畑にあったのか、それもわからなかったけれど、
 呼ばれたような、気がしたのだ。
 
 呼ばれたのだ、とそう言って、グラスランドは桃花心木の杖を手指が白くなるほど握り締め、胸に引き寄せる。
「けれど。わからないんです……どうしても、わからない」
「なにが、わからない」
 ゆるりと頭(かぶり)を振るグラスランドに問うと、魔法使いは項垂れた。
 ジジ……と、角灯のなかに入り込んだ羽虫が、ちいさなその翅を焦がす。
 燃える羽虫は、声のない悲鳴を上げて硝子のなかに、落ちた。
「あの石は魔力の塊です。魔力とはつまり、魂のかけら。でも、それが誰のものなのか、はっきりとはわからなかったんです。つい、さっきまでは」
 けれど、あの石を媒体に魔法を発動したことで、凍え固まっていた魔力が蝶となって燃え上がった。
 だから確信したのだ、とグラスランドは空の左手でおのれの髪を掴み、頭を抱える。
「魔力が誰のものなのか、わかったのに……それなのに……やっぱり、わからないんです」
「なにを言っている」
「……失われているんです、なまえが」
「なに」
「誰の記憶からも、なんの記録からも……あの方の真名が失われている」
 
 闇に浮遊する炎の蝶は、誰かの魂のかけら。
 なまえを失った魂は、底の知れない闇に浮遊する。
 ゆらゆらと、世界の輪から外れて、痛みという名の炎に舞う。
 耳に蘇るのは、
 声なき祈りの、残響。
 
「……真名」
「魔法大国カナンリルドの、宮廷魔導師長というお立場にある方です。魔術の徒なら、どんなに下っ端でも知っているはずの方なんです。いいえ。まだ魔術を知らなかった幼い僕だって、知っていたはず……」
 髪を掴むグラスランドの手指が、白い。
 寒くもないのに、ひどくその声音が震えている。
「はじめのうちは、記憶障害でも起きたのかと思いました。でも、僕だけじゃなかったんです。誰も、あの方のなまえを覚えていないんです。あの方のなまえが載っているはずの魔術書を読んでも、虫食いにあっていたり破れていたりで……なまえだけが、どうしても出てこないんです」
「どういうことだ」
「それを、知りたいんです。だから、カナンリルドに行きたいんです。そのために……魔剣ラティエスを、クラウディス王宮から盗んできたんです」
 真実を知りたい、とつぶやくように言って、グラスランドは膝の上でこぶしを握った。
 その言葉に、嘘の匂いはない。
 ゆっくりと上げられた涙の浮いた瞳にも、嘘の色はない。
 ただただ、まっすぐだった。
 だが、
「待て。魔剣が、なまえの失われたその魔法使いと、どう関係がある」
「それは……わかりません」
「なに」
「数年前、クラウディス王が賊に襲われる事件があったんです。そのとき王を助けた魔法使いが、魔剣ラティエスを王に預けたらしいんです。カナンリルドに赴く者に渡せ、と。でも、王はラティエスを王宮深くにしまいこんでしまった。国宝として。この通り、とても美しい剣ですから……惜しくなったんでしょう」
 この通り、と言われて、綺翠はふたたび美しき魔剣へと視線を向けた。
 グラスランドがラティエスを手に取り、静かに鞘から抜く。そのとたん、
 
 ドク……ッ
 
 やけに大きなおのれの心音を、聞いた。
 ゆらり、と柄飾りの青石がその輝きを揺らす。
「なん、だ」
 魔剣から、さきほど見たとき以上の引力を、感じた。
「……なんなんだ、これは……っ」
 闇色の毛並みが、逆立つ。
 全身が、心が、震えた。
 魔剣から放たれるそれは、魔力の波。
 炎の蝶から感じたものと、とてもよく似ていた。だからそれが、魔力の波なのだと知った。
 その魔力の波動が、まるで生き物の鼓動のように、脈打っている。
 押し寄せては、こちらを引き込み飲み込もうとしているのだ。
 まるで、ひとつになろう、とこちらを強く甘く誘うように。
「く……っ」
 透きとおった刀身に、角灯の火が跳ねる。
 石のなかで渦巻く高温の炎に、心が、熔かされるようだった。
 青銀の炎のなか。
 そこに、命を見た。
「魔剣とは……自体が魔力を持ち魔法も記憶している、いわば魔法生物のようなものです。生き物には、存在する理由があります。このラティエスにも、存在する理由がある。カナンリルドへと行く理由があるはずなんです。残念ながら、いまの僕にはその理由がわかりません。でも、きっと……王宮の奥にあってはならないものなんです」
 だから盗んできたのだ、と明かすグラスランドが、ふたたびラティエスを鞘におさめる。
 すると、ふ、と押し寄せ引き込もうとする魔力の波から、解放された。
 存在する理由。
 そんなものが、あるのか。
 自分にも、あるのだろうか。
 胸のうちで誰にともなく問いかけながら、ぐ、と崩れそうになる四肢に力を入れ、くらりと襲う眩暈を綺翠は首を振って追いやった。
 心臓が、うるさい。
 荒い呼吸音が、耳障りだった。
 
 
 
  

 

 
 

 

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