ふと、
 意識の果てで、声のない祈りのようなものを、耳にした。
 そう思ったとたん、意識が浮き上がる。
 そして、
 目を開けた綺翠(キスイ)は、そこに広がる世界が変わり果てていることに気付き、愕然とした。
 なんだこれは。
 そう思ったが、言葉は喉に張り付いて、声にならなかった。
 夜、だったはずだ。
 けれど世界は明瞭で、濃密で、鮮やかだった。
 上半身を起こすために手をつこうとして、凍りついた。
 視線のさきにあるものが、手、ではなかったからだ。
 すこし、力を入れてみる。
 動いた。
 
 ギ……ッ
 
 音を立てて、床板に傷がつく。
 鋭く光る、爪によって。
「……貴様……っ」
 喉を裂くようにして搾り出した声音は、輝くような世界とは反対に、不明瞭で地を這うほどに低いものだった。
 それはまるで、獣のようで。
 いや、獣だったのだ。
 闇ですら世界を明らかにする双眸に映ったその手は、漆黒の毛並みに覆われた獣の前足に変わっていた。
「ふざけやがって」
 瞳の奥が熱く、はらわたが煮えるようだ。
 炎のようにゆらりと立ち上がった綺翠が、ギリ、と杖を手に立ち尽くす魔法使いを睨み上げると、びくり、と肩を震わせてグラスランドは後ずさる。
「ひいぃ、こっち見たぁ」
「おまえがやったんだろうがっ!」
 綺翠が怒鳴ると、グラスランドは小娘のような悲鳴を上げてさらに後ずさり、壁に背をぶつけて座り込んでしまった。
 まるで、先ほどとは別人。
 呪文の詠唱中は、それこそ、触れることさえ躊躇われるほどの神秘を具現化したようなさまであったというのに。
 その頼りない姿は、本来ならひどく呆れるもの。けれど、いまの綺翠はそんな悠長な感情など持てなかった。
 床を蹴ると、跳ねた身体はあっという間に、グラスランドの目のまえに着地する。
 爪を立てて緑色の衣装の裾を踏みつけると、這ってでも逃げ出そうとしていたグラスランドが顔からころんだ。
 聞くものすべてが震え上がるような恐ろしい唸り声が、自分の喉から出ていることには気付いている。
 おそらく、簡単に喉を食い破れるほどに鋭い牙も、剥き出しにしているのだろう。
 けれど、どうしようもなかった。
 世界が明瞭になると同時に、感情さえも強く曝け出されるようだ。
 床の上に魔法使いを押し倒して、綺翠は見えない天を仰ぐ。
 言葉にはならない声が、長く、長く尾を引いて、月がなくとも明るい夜に、響いた。
 どうしようもなく腹が立って。
 どうしようもなく、悲しかった。
 
『獣(けだもの)めっ!』
 
 耳に蘇る怯えきった声音さえ、鮮やかで。
「これは、罰なのか……」
 壊れそうなほどに速い、魔法使いの心臓の上。
 そこに落としたくぐもった声音と、それを押し付ける前足が、震える。
「……え?」
 見下ろした先にある瞠られた茶色の瞳には、闇の色をした、魔狼が映っていた。
「……罰?」
 その、怯えの滲むつぶやきに、綺翠はかたく目蓋を閉じる。
 見下ろす先に映る、獣の姿。
 
 上がる、血煙。
 噎(む)せ返るような、死の臭い。
 折り重なる骸の上に、鋭い牙から滴り落ちる、赤い、赤い色。
 
 ぐ、と瞳を閉じた。
 そんなもの、見たくはなかった。
「もとに、戻せ……」
 鋭い牙の隙間から、言葉を漏らす。
 見せないでくれ。
 わざわざ、こうして罪をかたちにして、俺に見せないでくれ。
 そう、願うのに、
「え。あ。すみません、戻せません。って言うか、戻し方は知りません」
 それを聞いたとたん、頭のなかが真っ白になった。
 どこか遠くで、犬が歌う。
 風が、窓のそばの葉を揺らした。
 青葉の匂いが、する。
「……嘘、だろう」
 情けないような声音は、おそらく牙が並ぶこの口からこぼれ落ちたもの。
「す、すみません、ほんとに知らないんです。ごめんなさい。あの、ええっと……こんなときに、なんなんですけど、魔法使いは嘘をついたりしないです。呪文を紡ぐくちびるが汚れるから。ほんとに、あの、すみませんっ」
 魔法使いが嘘をつかない、などという情報などはどうでもいい。けれど、だとするのなら、
「おまえ、俺に殺されるつもりか」
 溜息のように、そう言った。
「え。え? なんで、そうなるんですかぁ」
「解き方もしらない呪いを俺にかけて、それを俺に知らせて。それで俺がおまえにおとなしく従うと思うか。自分しか解けない呪いなのだから従え、というならわかるが」
「…………あ」
 あ、という間の抜けた声音に綺翠が重い眩暈を覚えていると、グラスランドは床に倒され胸の上に魔狼を乗せたままの格好だというのに、そういえば、と暢気に笑みを浮かべた。
「そういえば、そうですね。だとすると……綺翠。やっぱり、あなたは僕と一緒に行かなくちゃだめです」
「なに」
「って言うか、お願いです。僕と一緒に、カナンリルドへ行ってください」
 
 カナンリルド。
 
 魔法使いがその地の名を告げたと同時に、慌てて闇のなかに飛び立つ鳥の羽音を、聞く。
 それは、大陸の南方に位置する大国。
 大輪の花に包まれた国だという。
 しかし、
「意味、が……わからない」
 呆然とつぶやき、綺翠はグラスランドの上から後ずさるように床に下りる。
 なぜか、その名を聞いたとたん、全身を包む漆黒の毛並みが逆立ったよう。
 目に見えないなにかのせいで、口のなかが乾く。
 ただの、国のなまえ。
 魔法を紡がれたわけではない。
 だというのに、これはなんだ。
 身体のなかのなにかが、ざわつく。
 鼓動が、震えるのだ。
「僕と、カナンリルドへ行ってください」
 ゆっくりと身体を起こしたグラスランドは、笑みを消し去った真摯な瞳でこちらを見つめ、繰り返した。
 その左の手が、なにかを握っている。
 さら、と手指の隙間からこぼれたのは、赤い砂。
 鱗粉のようにわずか、輝いて、暗い宙に溶けていく。
 甘い花の香(か)も、儚く滲んで消えていく。
 そのかわりに、
「僕にできることはもう、ほかにないんです」
 まっすぐに見つめてくる大きな茶色の双眸に、光が滲んだ。
 涙の、匂いがした。
 
 

     

  

 

 
 

 

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