ゴト、とグラスランドが背に負っていた魔剣ラティエスを、足もとに下ろした。
 ラティエスを咥えてでは、こんどはこちらの動きが制限されてしまう。
 とはいえ、相手は魔物だ。魔法使いのほうが、戦力になるのかも知れない。
 そう判断した綺翠(キスイ)は、布に包まれていたラティエスを取り出し、咥えた。
 やはり、グラスランドが言うような重みなどは、ない。
 しかし、それを怪訝に思っている間も、なかった。
 取り囲む炎が、じりじりと、無遠慮にこちらを撫でようとその手を伸ばしてくるのだ。さらに、炎に怯えない魔物たちが、鋭い爪で薙いでくる。
 そのつぎつぎと繰り出される爪と炎から、綺翠はふたたび呪文の詠唱をはじめたグラスランドを守らなくてはならなかった。だが、牙は使えない。
 綺翠にとって魔剣ラティエスは、重みを感じさせない羽根のようなものだが、それでもその透き通った刃を牙のかわりとして扱うことは、決して容易ではなかった。
「……っ」
 身体のどこかに、焼け付くような痛みが走る。
 だが、風の魔法が得意だというグラスランドの詠唱が、長い。
 それはつまり、風の魔法ではないということ。威力もあるものなのかも知れない。
 それならば、尚のことその詠唱を邪魔させるわけにはいかない。
 傷つけられた箇所を確かめることなくグラスランドのまわりを走るうち、炎や魔物が放つ匂い、そのさまざまな匂いが入り混じるなか、そこに、血の匂いを嗅ぎ取った。
 血の匂いが濃くなるたびに、痛みに全身を焼かれてしまいそうで、目眩がする。
 それでも、くら、と襲うその目眩に耐えていると、ようやく、グラスランドの透る声音が高まった。
 おそらく、最後の一節に差し掛かったところだろう。だが、
「闇を薙ぐ光の太刀。我は……う、わっ!」
 詠唱を途中で途切れさせたグラスランドのすぐ目のまえで、上空から急降下してきた魔物が飢えに双眸をぎらつかせる。
「くっ!」
 駆けていた綺翠はすぐさま身体を反転させ、地を蹴った。
 ザッ、と赤い色がその拍子に散り、飛沫がラティエスの刃をわずかに濡らす。
 だが、そんなことすら気付かず、綺翠はグラスランドを襲う魔物の翼を叩き折った。
 そのときだった。
 
『闇を薙ぐ光の太刀』
 
 着地するなり聞こえたその音に、え、と綺翠は瞠目する。
 音は、その陽光に煌く清流のような声音は、ラティエスから聞こえたような、そんな気がした。
 見ると、金剛石のような刃が、白い光を孕んでいる。
 その光に呼応するように、身の内に潜むグラスランド魔力の欠片が歓喜に震え、全身が痛みのためではない熱を持った。
 『闇を薙ぐ光の太刀』とまずは一節歌ったラティエスが、つぎの瞬間、
「っ!」
 眩しく清浄な白金の光を、放つ。
 その光に目を焼かれた魔物たちは、悲鳴を上げて後ずさろうとした。だが、どうやら魔剣に吸い寄せられるのか、逃げ出そうともがくのにできずにいるらしい。
 その間にも綺翠は、激しく身体に伝わってくる魔剣の鼓動に、四肢に力を入れて耐える。
 脈打つ強大な魔力の波動に、おのれの鼓動が重なり、激しく身体が揺さ振られるようだった。
 柄飾りの青い宝玉が、いっそう輝く。
 そして、
 
 ギャアァ……
 
 長く尾を引く悲鳴を上げながら、周囲の魔物はラティエスが放った光に塵と変えられ、さらにその刃に飛散した魔力ごと吸い取られてしまった。
 魔物を餌食とした刀身は、一瞬闇の色に染まるが、またすぐに光を纏う。
 そして、いよいよその輝きが頂点に達したとき、
 
『我は放たん、浄化の一閃』
 
 最後の一節を、視界を白金に染めたラティエスが歌った。
 その瞬間、綺翠はおのれの身体が宙に投げ出されるのを感じる。直後、強かに身体が地面に叩きつけられた。とっさに身を起こすものの、光に奪われた視界がすぐには回復しない。
「グラスランド!」
 無事か、と全身の痛みを堪えて声をかけるが、しかし、返答はない。
 まるで、自分以外のものすべてが消え失せてしまったかのような。
 耳が痛くなるほどの、静寂。
「なにが、どうなった」
 混乱するが、取り乱してはならない。
 戦いの場ではそれが命取りになることは、よくわかっていた。
 だから、その場からじっと動かないまま身構え、神経をいっそう張り詰める。
 そうするうちに、やがて、ゆっくりと光が収縮していくのを感じた。
 消え失せていた色とかたちとが、しだいに曖昧なものとなり、そこから徐々に鮮やかさを取り戻していく。
 はじめに目にしたのは、地面に突き刺さったラティエスだ。
「魔剣とは、気まぐれでわがままなものです。持ち主の思うとおりになるものは、数少ない。その上、周囲にある高密度のマナの塊を糧にして、剣自体に秘められた魔力を活性化、または補充増強して、記憶している魔法を発動します」
 グラスランドが、静かに風渡る、魔物の消え失せた原野を見つめながら、どこか悲しげに言う。
「つまり、周囲のマナを糧にしただけでは追いつかないほどに強力な魔法を発動したとき、おのれを振るう者の魔力や体力までもを奪います。綺翠。いま、僕たちがここに無事でいるのは……」
 マナの異常に魔物化してしまった精霊や魔族たちが、この場を埋め尽くすほどに集まっていたから。
 わかっている。
 善悪など、ないのだ。
 ただ、生き残るためなのだ。
「……空気が、震えているな」
 しん、と胸に無音の痛みが広がっていった。
 
 
 
 
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