そう、はっきりとした善悪の姿など、どこにもなかった。
敵であったものも、ほんの少し土地がずれていただけで、味方であったかも知れない。
この手で肉体と魂を切り離した相手は、もしかすると親友と呼べる相手となっていたかも知れない。
考えてもどうしようもないことは、わかっている。
いや。戦の最中には、そのような思いの一片すらも頭を過ぎらなかった。
痛みというよりも、熱が身体を支配していた。
他人の熱を奪い去り、おのれの熱を滾(たぎ)らせる。
ただ、それだけだった。
ふ、と虚しさを感じたのは、熱の奪い合いが終わった、そののち。静寂のなか、数え切れないほどの骸を踏みつつ、目に痛いほどの晴天を見上げたときだ。
あのときも、空気が震えていたと思う。
たぶん。
熱を奪われたものの痛みが、残っていたのだろう。
ただ、静かに。
クルッピー。
「……あ?」
なんとも間の抜けた音に、綺翠(キスイ)は現実に引き戻された。
懐から金色の懐中時計を取り出したグラスランドが、蓋を開けるなり飛び出した緑色の小鳥を眺めつつ、しきりに首を傾げている。
「なん、だ」
問うた声が、すこしかすれていた。
長く物思いに沈んでいたつもりはなかったが、自分が思っている以上に時は経っていたらしい。すでに、夜の闇があたりを侵食しはじめていた。
原野を休みなく歩き続けていたグラスランドは足を止め、じっ、と懐中時計を見つめる。
「鳥が引っ込まないんですよ。ほんとうは、こう、文字盤のなかに出たり入ったりを繰り返すんです。おかしいな」
しかし彼の手のなか、蛍のように光る文字盤の上に浮き出た小鳥は、長い発条(ばね)の先につけられたおもちゃのように、滑稽に揺れたままだ。
綺翠は、黙ってそれから目を逸らした。
時計がどう、というよりも、このような緊張感のかけらも感じられない品物を持っているおまえのほうが、おかしいだろう。
そう言ってやろうかとも思ったのだが、面倒なのでやはりやめた。
ふ、と息を吐き、紅と紫紺とに染まる空を見上げる。だが、
「どうしよう……いまにも、溢れ出してしまいそうだ」
不意に震え声でつぶやかれた言葉に、ふたたび視線をグラスランドへと向けた。
「なにがだ」
「魔力です。いま、この場は、器になみなみと水が入っている状態とおなじなんです。あと一滴の水を落とせば、氾濫してしまう。それを感じたから、魔物たちはいま、息を潜めているんです。氾濫した魔力の奔流に飲まれては、ひとたまりもないから」
不意に魔物たちが襲ってこなくなったのは、魔剣ラティエスの力に怖れをなしたわけではなく、器の限界を敏感に嗅ぎ取ったから。
それにいまのいままで気付かなかったなんて。
そういったグラスランドは、ぐ、と胸に杖を引き寄せる。
よく見ると、暑くもないのに、その額に汗が浮いていた。
どうやら、ふざけているわけではないらしい。
「もともと、カナンリルドは龍脈の集中する国です。本来ならば国中を循環するはずのマナですが、水霊だけが『蟻塚』に囚われているために、力の流れが淀んでいるんです」
そう言って、前方にある毒々しいほどの赤に染まる空の下、そこに蹲る方錐形を見つめるグラスランドは、その喉に息を飲んだ。
「もうすぐ……十年間溜めに溜められた魔力が、溢れます。どうしよう。これ以上、近づけない……」
悲鳴のようなその声を、綺翠はぴんと立てた耳に聞く。
氷に覆われた方錐形。
カナンリルド王宮『蟻塚』は、もう、目のまえ。
涙の、匂いがした。
「見つけたよ、裏切り者!」
そのときだ。
背後から、鋭い声音を吐き付けられた。
え、と振り返るグラスランドの大きな瞳が、さらに大きく瞠られる。
乾いた地面に、金色の火花が散った。
「だ、だめ……っ!」
悲鳴を上げたグラスランドに説明されるまでもない、渦を巻く魔力の火花のなかに、青い色を見る。
おそらく、グラスランドを追ってきたクラウディス国の魔法使いだろう。
そして、その瞬間、
「……ふざけるなよ、魔法使い」
一滴の水が、注がれ、
器から溢れ出した魔力の奔流に、飲まれた。
色彩が、反転する。
空が闇を抱えた白色に染まり、乾燥した大地は紫紺に沈む。
いっさいの音が、消え失せる。
灰色の肌をしたグラスランドが頭を抱えて悲鳴を上げるらしいが、声はない。
駆け寄ろうとしたが、動けなかった。
移動魔法で現れようとしたクラウディス国の魔法使いの姿が、黒い火花に喰われて消える。
叫ぼうとしたが、喉が絞まった。
つぎに、拍動に身体を揺すぶられる。
肉と皮とを突き破って、心臓が外に飛び出そうとするかのように。激しく、揺すぶられる。
全身の血液が沸騰し、逆流するようだ。
目の奥、口のなかが熱く、痛む。
骨が軋み、爪と肉が剥がれて、内側から飛び散ってしまいそうだ。
『獣(けだもの)めっ!』
戦場で怒りと憎悪をぶつけた相手を、斬った。
相手の弟を、直前に斬っていた。
その血に濡れた兜の下の顔はまだ、子どもだった。
なぜ、あんな子どもまでが戦に出なくてはならなかったのか。
なぜ、あんな子どもを斬らなくてはならなかったのか。
なぜ、あの男は幼い弟とともに戦に出なくてはならなかったのか。
なぜ、弟を殺されたあの男を斬らなくてはならなかったのか。
誰か、教えろよ。
なぜだ。
なんのために、熱を奪い合う。
他人の熱を奪ってまで生きる意味が、なあ、あるのか。
痛みは、炎を生む。
世界は、痛みに溢れている。
それは誰の言葉だったか。
いまとなっては、思い出せない。
『紅炎嵐舞』
彩度と明度の低い世界。
そこで歌ったのは、誰だ。
ちらちらと、あちらこちらで輝きが生まれる。
ラティエスなのか。それとも、
「蝶、か」
声が出たかは、知れない。
だが、そう口にしたとたん、無数に生まれた輝きが弾けた。
痛みに彩られた炎が、噴き出したのだ。