火種に、油を注いだように。
そして勢いよく飛び散る火の粉が、宙で無数の虫へと変化する。
炎の鱗粉を撒き散らす、蝶へ。
いくつもの螺旋を描きつつ炎の蝶は増殖し、暗く白い闇を侵食する。
身体の自由が利かずに地に伏していた綺翠(キスイ)は、声もなくただ、その金赤に輝く螺旋を見上げた。
鱗粉に覆われた蝶の翅は、動くたび、そのさまを変化させる。
炉のなかで炎が渦巻くように、闇のなかで極光が溶けるように。
高温の青銀を内包し、ゆらゆらと。
そして、その翅に鼻先を打たれて、綺翠は瞠目する。
嘲笑うように、蝶が輪郭を滲ませた。
とたんに、苦痛に混濁しかけていた意識が、引き戻される。
さらにこちらを打ちにくる蝶を、さっ、と立ち上がった綺翠が跳んで避けると、ジュッ、とそのままの勢いで地面に落ちた蝶は、焼け崩れて消えた。
「いったい、なんのつもりだ」
それを一瞥し、すとん、とよっつの足で着地した綺翠は、誰へともなくつぶやく。
そして、気付いた。
音が、戻っている。
反転していた色彩が、修復される。
白色の闇が、漆黒の闇へ。
その深く濃い闇のなか、一層の輝きをもって、炎の蝶は舞う。
そのさまは、溢れ出した魔力を貪欲に食らうようにも見えた。いや。実際、蝶が舞うたび、身体が楽になっていくようだ。
まるで、そこに満ちる痛みを吸い上げるように、炎は膨れ上がり嵐のように舞い踊る。
そして螺旋は天へと駆け上がり、はるか上空でひとつとなった。
巨大な、それ。
燃え立つ翅が纏うのは、金と白金に煌く鱗粉。
その翅のなかに透けるのは高温の、青銀の脈。
翅が揺れるたびに、綺麗で脆い硝子の破片が降るような音がして。
仮初めの太陽のように、夢幻の蝶が、暗い空に輝く。
「……炎精の、蝶」
思わず、つぶやきをこぼした。すると、
「ええ、そうです。あの方です。『炎精の蝶』……あの方の、異称。あぁ……なんて、素晴らしいのだろう」
いまにも泣き出しそうな声音が言う。
見ると、グラスランドのおおきな瞳が蝶を映して輝いていた。
だが、そのときだった。
『……は、やく……』
いまにも掻き消えてしまいそうなほどに儚い声を、聞く。
「え」
となりで空を仰ぐグラスランドを見やるが、さきほどとおなじく胸をうち震わせているだけ。
聞こえては、いない。
気のせいなのか。
そう思った綺翠の目の端に、しかし、青い輝きがちらついた。
グラスランドの、その背。
そこに負われた魔剣の柄飾りが、同様に鼓動を高鳴らせている。
綺翠はふたたび、空を見上げた。
青銀の蝶が、どこか、変色しはじめているように見えた。
青銀から、白金。白金から、金へと。
「グラスランド! ラティエスを寄越せっ!」
「え?」
言うなり、グラスランドに体当たりをして彼をうつ伏せに転ばせた綺翠は、その背に飛び乗り、ラティエスを咥えて鞘を払うと、その透き通る刃を熱せられた空気にさらした。
とたん、
ザアァァ……ッ
揺らめく巨大な炎の蝶が、内側からはじけて光の粒子となる。
そう。
魔剣は、周囲のマナを糧とする。
凄まじい勢いで、光が押し寄せてくる。いや、吸い寄せられてくる。
そして、
溢れ出した魔力、そのすべてである幾億にも散った煌く粉を喰い尽くし、ラティエスが歓喜に震えた。
じん、とその震えが、漆黒に包まれた身体に伝わる。
歓喜の震え。
しかしそれは同時に、焦燥となる。
「急ぐぞ」
地面から顔を上げたグラスランドに、綺翠は短く言う。
まっすぐに、『蟻塚』を見据えながら。
※
「訊いてもいいか」
死の気配が濃く漂う、深い静寂の淵。
蜘蛛の巣のように広がる、呼吸なき背の低い崩れかけの建造物の群れが、深く影を重ねて黒く塗り潰され沈んでいる。
その、地表に押し付けられた蜘蛛の巣の中心に、死者の肌の色をした巨大な方錐形はあった。
中心を向く面に急な傾斜をつけた一群が、聳(そび)えてより濃く周囲に影を落とす凍て付いた方錐形を、おののきながら見上げるよう。
風が、耳に嘆きをこぼしていく。
涙の匂いが瞳に染みて、胸に滲む。
亡霊のように闇に浮き上がる、呪われた宮殿。
その姿を見つめていると、なぜか急くような思いが胸に込み上げてくる。
それを押しとどめながら、綺翠は言った。
「真名を封じられると、どうなる」
それに、え、と訊き返すグラスランドの声が、かすれている。
「真名を失うと、どうなる」
重ねて訊ねると、常のグラスランドとは思えないほどに暗い声音がした。
「……この世界に存在するものすべてが、真名を持っています。それを失うということは……つまり、世界からこぼれるということです。力を失い、生とも死ともつかない虚無に魂をさ迷わせること。そしてもしも、真名を封じられたなら、どれほどの生命力と魔力を持っていようが名を封じたものの支配を受け、魔力と行動を制限されます」
「『炎精の蝶』と言ったな」
「ええ。あの方の、異称です」
「名は、やっぱり思い出せないのか」
「……はい」
「それならばなぜ、『炎精の蝶』は魔法を使えた。力を、失っているんだろう」
真名を失っているものがなぜ、たった一節の呪文であれほどの魔法を発動することができた。
あれはほんとうに、グラスランドが憧れるという『炎精の蝶』なのか。
あの夢幻の蝶を出現させたものが確かに『炎精の蝶』だというのなら、真名を失っているというのはほんとうなのか。
「おかしくは、ないか」
背後にいるグラスランドを振り返らずに、言う。
「あれほどの炎の魔法が使えるのなら、なぜ『蟻塚』はああして凍ったままだ」
けれど、耳に蘇る声もある。
苦しげに、はやく、と言ったあの声。
あれが、ほんとうはどういう意味だったのかは、知れない。
あのときはとっさに魔剣ラティエスを抜いたが、それで良かったのかさえわからない。
あの声の正体が、知れない。
「自殺行為ですね」
そう言った震え声に、なに、と振り返ると、グラスランドが泣いていた。
溢れては流れる涙を拭いもせずに、じっとカナンリルド宮殿『蟻塚』を見つめている。
「魔剣が、発動した魔法に見合う魔力を餌とできなかった場合、おのれを振るうものの体力も食らうという話を、しましたね」
「……ああ」
「それは、魔法使いにも言えることです。すべては、等価によって支払われます。だから、おのれが持つ魔力以上に強力な魔法を発動した場合、魔法に体力を……命の力を喰われます」
ゆっくりと、綺翠は瞠目した。
風が、全身を包む闇色を撫でていく。
ざわり、と胸の奥が震えた。
「……お、い」
「あのまま溢れ出した魔力の奔流に飲まれていたなら、僕たちはいまこうしてここにはいない。魔力と溶け合い、流れの一部となっていたでしょう。あの方が……魔法を、発動してくださらなければ、僕たちは……」
「そう、か。おまえ……」
言いかけて、綺翠は静かに目を閉じた。
夢幻の蝶を見ていたとき、
ただ、歓喜していただけではなかったんだな。
だから、いつまでも涙の匂いが、消えない。