す、と角灯のなかの炎が音もなく、消えた。
よせ、と搾り出した声音が掠れ、動かそうとした足は動かない。
その足もとからゆるりと這い上がった目に見えない力に纏わりつかれ、その場に縫いとめられて、ざわ、と総毛立った。
赤い光を握りこんでいた、グラスランドの左手が開かれる。
光を放つそれは、赤い石のように見えた。だがそれはほんの一瞬のことで、赤い物体は外気に触れたとたん、魔法使いの手を離れて宙に浮き、音を立てて発火する。しかも、ただ炎を噴いたわけではなかった。
みるみるうちに、炎はなんらかの形を成していく。
中心から左右に向かってゆるやかな曲線を描きつつ広がるそれはまるで、炎の鱗粉を初夏の闇に撒き散らす、美しい虫のよう。
「蝶……?」
警戒と緊張に掠れた声音が、闇に吸われる。
じわり、と闇の吐息がおなじ色の髪の先をなぶった。
絡み付く、花の香。
グラスランドは一瞬、なぜか苦しげな表情をみせた。しかしすぐに目を閉じ、魔法文字の刻まれた身長を越す長さの杖を、火の粉の鱗粉を撒きながら頼りなく浮遊する蝶へと向けた。
すると、それまでただ無軌道に宙を漂うだけだった蝶が、魔法使いの杖が示すとおりにゆるやかな流れで動き出す。
青銀の光の軌跡を、残して。
「……う」
頭痛がした。
これは、蝶の発する力の波によるものなのか、魔法使いを軸に足もとに淡く発光する白い魔法陣が現れたせいなのか。
魔法。
そんなものを、目にするなどはじめてのことだった。ましてや、その対象になるなど。
「……く、そ……っ」
痛みが、増した。
同時に、翅の炎が強まる。
まるで、こちらの痛みを吸い上げるように。
これが、魔法なのか。
立っていることさえ、ままならないとは。
綺翠は、目蓋と四肢を襲う震えと視認できない力の重圧に耐えながら、その光景を睨み付ける。
炎の蝶は、魔法使いの足もとにあるものとおなじ魔法陣を闇に描くと、ひらひらとその中心に留まった。
そのさまは、光に透ける緻密な蜘蛛の糸に捕らえられた蝶のようでもあり、輝きをこぼす大輪の花に翅を休める蝶のようでもある。
「漆黒に燃ゆる新月、歌う銀盤。甘やかなる闇よ。その艶(つや)やかなる指(および)よ。我は恋い、乞う、深奥に浸透する闇の雫。その暗き煌きにより内包せよ」
甘い香りが強くなった。
どこか神々しいような雰囲気さえ漂わせる魔法使いが発するその音の響きに、じわり、と四肢を絡めとられる。
心の深い場所に、熱さを孕んだ風が吹く。
焼け落ちてしまうのではないか、というほどに熱くなる胸を、かきむしった。
腰に吊るした剣を抜こうとするのに、噴き出す汗に手指が滑る。
睨み付けようとするのに、それさえもできずに、情けなく両膝をついた。
光る青銀の花が咲く、氷の皿の上に。
目蓋を覆う眩暈に、意識は遠のいていく。
薄れるその意識の向こうで、蝶を見た。
魔法使いが紡ぐ呪文がなんと結ばれたのかは、わからない。
だが、
蝶が、煌きながら、その形を崩していくさまだけは、わかった。
それはまるで、赤い痛みを抱える、光の雨。
やがて、綺翠はどこか深い淵にゆっくりと落ちていくように、
意識を失った。