※
空は、幾万の輝きが散りばめられた紺青。
夏の気配を漂わせる夜気に、夜の鳥が啼く。
角灯のなかで揺らめく蝋燭の火に、一匹の羽虫が誘われてやってくる。
その羽虫を、窓に腰かけた綺翠はそちらに目をやることなく軽く手を振り、払った。
宿屋の二階から見る街道は、漆黒の闇に包まれている。
追っ手の姿は、なかった。
それも、こちらを見てにこにこしている魔法使いのせいだ。どうやら、魔法とやらで自分たちの足跡を隠しているらしい。
だが、そんなことができるのならば、衛兵に見つかるまえにしておけば良かったというのに。お陰で、面倒なことに巻き込まれてしまった。
綺翠は舌打ちしたい気分を、ぐ、と押さえ込み、粗末な木製の卓の上に置かれているものに視線を移す。
クラウディス王宮から盗まれてきた、国宝『魔剣ラティエス』。
二色の金属でつくられた柄と、いまは鞘におさめられている透き通った刀身。そのふたつを分けるあたりから、こちらをまっすぐに見つめてくる、柄飾りの青石。
それを見ていると、まるで炎に誘われる羽虫のような心地を覚える。
「国宝なんて、売り飛ばすわけにもいかないだろうに」
青石から瞳を引き剥がすようにして魔法使いに視線を移し睨むと、いやだなぁ、とグラスランドは子どものように眉を寄せた。
「売ったりするわけがないじゃないですか。お金が欲しいだけなら、あのまま王宮に仕えていれば良かったわけですし。僕の家は百姓ですけど、別に貧乏というわけでもありませんからね」
「つまり……その剣を盗み出すために、王宮に出仕したのか」
「はい。そのとおりです!」
悪者ならもうすこし卑屈になれよ、と思わずこちらが呆れるほど、悪びれたようすもなくグラスランドは元気良くうなずく。
しかし、ふ、と一瞬、その茶色く大きな瞳に愁いのような色が滲んだ。
気付いた綺翠が眉を寄せると、グラスランドはまたすぐにその色を消し去り、ふわりとした笑みを浮かべる。
「でも、ほんとに見事に巻き込まれちゃいましたねぇ、綺翠」
「……殴るぞ」
「ひ、ひどいっ! 僕、暴力は嫌いだな」
あっというまに、グラスランドは瞳を潤ませた。その、まるでこちらが悪者であるような言い様に、綺翠の額には青筋が浮く。
王宮から国宝を盗んできた上に、手伝わないと呪う、と通りすがりの人間を脅してきた極悪人は、やはり相当な厄介者らしい。
「だったら、さっさと俺のまえから消えろよ。俺はすぐに手が出る性質(たち)だ」
苛立ちつつ言うと、えー、という空気を読まない暢気な声音がした。
「だから、それは駄目ですってば。僕ひとりじゃ無理ですもん。見捨てないでくださいよぅ。呪いますよ、ほんとに」
「知るか」
短く言って、そのまま突き放すように目を逸らす。
すると、すこしの間をおいたあと、
「そうですか……残念です」
と、いまにも泣き出しそうな声音が言った。
そのとき、ふわ、とどこからともなく、甘い花の香(か)が流れてくる。
けれど窓の下に咲く花などはない。
そして、さきほどまで聞こえていた鳥の歌が、ぴたりと止んだ。
え、と思った瞬間、瞳の端に赤い光を見る。
「では、呪わせていただきまぁす」
赤い光のなか、杖を床と水平に構えた魔法使いが、そう、まるで朝の鳥のような爽やかさで宣言した。