綺翠(キスイ)は躊躇していた。
 右手にひろがる深い森のなかから、突然飛び出してきた何者かが、目のまえで派手に転んだからだ。
 それはもうあまりにも見事な転びっぷりであったために、思わず足を止めてしまった。
 さらに、うつ伏せで倒れこんだままなかなか起き上がらないものだから、そのまま素通りできずにいる。
 やわらかそうな茶色い髪には、小枝やら葉やらをくっつけたまま。
 少々汚れた袖なしの外套に、重たげな鞄を斜めがけにしていることから、旅のとちゅうなのだとは知れる。
「……う……ぅ」
 どうやら生きているらしい。しかし、背に背負った長細いものが重いのか、もう体力の限界であるのか、起き上がろうとはするもののまたあっけなく地に伏せてしまった。
 だが、生きているのなら問題はないだろう。
 そう思って、ようやくそのまま声をかけずに通り過ぎることを決断した綺翠の耳に、不意に森の奥から近付いてくる音が聞こえた。
 荒々しく木の枝を踏みつけ、鋭い刃で薙ぎ払う音。
 そして、怒号。
 追われていたのか、とまだ倒れたままの旅人を一瞥(いちべつ)し、綺翠は腰に下げていた剣の柄に右の手指を伸ばす。
 しかし、ふ、とそのとちゅうで、手指を止めた。
 
 なぜ、こんなものをまだ持っているのだ。
 
 胸に浮いた、虚しさ。
 指先が、じん、と痛んだ。
 乾いた自嘲をこぼしそうになるくちびるを、引き結ぶ。
 だが、荒々しい気配はもうすぐそこ。
 綺翠は鋭く舌打ちすると、ぐ、と鞘におさめたままの剣を手に握った。
「なんだ貴様は! そこをどけっ!」
 森から飛び出しこちらの姿を見るなり、手にしている抜き身の長剣を振り上げた男を、けれど綺翠はその翡翠色の双眸で見ようともしない。
 眼差しは倒れたままの旅人に向けたまま、がつ、と振り下ろされた刃を握った剣の鞘で受け止めた。
「邪魔をするなっ!」
 さらに飛び出してきた三人に、囲まれる。
 いずれも、細身である綺翠よりもずっと体格のいい男たち。
 綺翠は、細長く、息を吐く。そして、
「さては仲間だな! かまわん、やってしまえ!」
 やってしまえ、と最初に飛び出してきた男が声を上げると同時に、右腕を上げ、鞘に受けたままにしていた刃を振り払った。
 剣を振り払われてわずかに隙をみせた相手の腹に、ついでとばかりに蹴りを見舞う。
 体勢を崩して後退した男を庇うように左から突き出された剣先を、すぐさま返した剣の鞘で跳ね飛ばし、身体をうまく捻って別の方向から振り下ろされた刃を避けた。
「くっ、そ!」
 相手の顔に、焦りがみえはじめる。
 それでも綺翠の顔色は、すこしも変わらない。ただ、すい、と上げた瞳でまっすぐに相手の顔を見据えるだけ。
 まるで舞でも披露しているのかというほどの鮮やかさで、つぎつぎに振り下ろされ突き出される刃を避け、鞘で相手の手を打ち得物を落とさせる。そして、得物を失った男たちの腹には鞘、あるいは踵を叩き込み、とうとう四人全員を地に伏せてしまった。
 だが、胸に浮くのは爽快感などではない。
 ふ、と虚しく息をつき、鞘におさめたままの剣を腰に吊るしなおしていると、不意に、
「お見事ですぅ」
 という、暢気な声音がした。
 声のするほうへと瞳をやると、情けなく倒れていたはずの旅人が地面から身体を起こし、ぱちぱち、と両手を打ち鳴らす。
「いやぁ、助かっちゃいました。ありがとうございます」
 どうやらこちらが予想していた以上に、元気らしい。
 まだどこか幼さを残した顔いっぱいに人懐こい笑みを浮かべる旅人は、座り込んだまま、小動物のようにくりくりとした茶色の大きな瞳で見上げてくる。
「旅の剣士さんですか? ええっと……東の大陸から来られたのかな?」
 けれど綺翠はそれには答えず、少々乱れてしまった黒い上着の長い裾を黙って直した。
 その綺翠の背に流れる髪の色は、艶(つや)やかな漆黒。
 西の大陸には生まれない色だ。
「お国はどちらですか」
 ふわふわとした口調で訊ねられて、綺翠は溜息とともに異国の空を仰ぐ。
 赤く染まった西の空を、黒い影となって鳥が行く。
 南方の山脈は赤と紫とが流れて混じる不思議な色に染められ、その裾は黒く長く伸びていた。
 熟した橙の色をした夕陽の光が、翡翠の瞳にやんわりと吸われて、そこできらめく。
 だが、そこに生きることへの喜びが溢れていたなら、溜められた光がこぼれるさまはどんなにか美しいだろうに、と惜しむほどに、その瞳には諦めの色が濃く漂っていた。象牙色の肌の涼しげに整った容貌でも特に目を引く瞳ではあるが、誰の熱い視線も温めることができないような冷えた眼差しが、美しい色彩をいちじるしく損ねている。
 ふ、と口を閉じた旅人の、しかしこちらからすこしも逸れてはくれない視線に、綺翠は居心地が悪くなり、ふたたびこぼれそうになる溜息を押し殺しつつ、じっとこちらを見つめる茶色の瞳に目をやった。
 旅人は、微笑んでいた。
 やわらかくて、深い。
 なにか不思議な力を持つ、笑み。
 その笑みに、なんだ、と綺翠が静かに眉を寄せると、
「あああっ!」
 突然、旅人が調子のはずれた声を上げた。
「ないっ? どこっ? どこにあるの、僕の杖っ?」
 自分のからの両手を見、周囲を見回して大騒ぎをするそのようすに、綺翠はさらに眉を寄せた。
「……あれじゃないのか?」
 溜息まじりに、ずっと左手に落ちている長い棒を指差してやる。旅人が転んだ拍子に、その手から勢い良く飛んでいったものだ。
「ああっ! あんなところに! ありがとうございま……うきゃっ」
 慌てて立ち上がろうとして、旅人は外套の裾を踏みつけ、ふたたび転ぶ。しかたなく、綺翠が腕を引いて起こしてやると、彼は恥ずかしそうに笑って礼を言った。そして、
「すみません。ちょっとこれ。そう、この背中にあるやつなんですけど。それ、ちょっとだけ持っていてもらえませんか? 重くって」
 そう言って、背に負っている長細い荷物を、綺翠が返事をするまえにその手に強引に押し付ける。
 しかし、
「……重くはないが」
 旅人があまりに重たげにしていたので覚悟をしていた綺翠だったが、その軽さに拍子抜けした。
 少々おおげさかも知れないが、まるで羽根のようだ、と思ったのだ。
「そうですか?」
 杖を拾いにいった旅人が、どこか含みのある笑みを浮かべてこちらを振り返る。
 
 得体が知れない。
 
 す、と目を細めた綺翠は、杖を拾い上げる旅人に歩み寄ると、さっさと荷物を返してこの場を去ろうとした。
 これ以上、関わりたくはなかった。
 それなのに、
「……ぅ」
 気を失っていた男たちのひとりが、呻く。
「ふきゃわっ! たいへんだ、逃げなきゃ! はやく行きましょう! 急いでーっ!」
 聞こえた呻き声に、おかしな悲鳴を上げつつ飛び上がった旅人は、やはり綺翠の返事など待たずに駆け出した。斜めがけにした鞄(かばん)の重さなど感じさせない、逃げ足のはやさで。
「おい、待て!」
 長細い荷物は、まだ持たされたままだ。
 追わないわけには、いかなかった。
 しかたなく駆け出す、その直前。
 ちら、と地に倒れ伏す四人を振り返った綺翠は、いまさらながら、わずかに首を傾げる。
 盗賊にしては、仕立ての良い揃いの青い上衣。
 得物の柄にも、紋章らしき彫刻。
「まさか……」
 浮かび上がる嫌な予感に、思わず頬を引きつらせるが、もう遅い。
 旅人を追って駆け出した綺翠は、二度と振り返らなかった。
 
 
 
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