生きるということは、それ自体が魔法。
 なまえという強力な呪文で、魂と身体はここにある。
 だから、思うのだ。
 この魂と身体を構成するものは世界とおなじ物質で、すべては繋がっているのではないかと。
 たとえどれほどにかけ離れた姿であろうとも、世界のどこかでなにかと繋がっているのかも知れない、と。
 世界は広くて、狭くて。
 冷たくて、温かい。
 だからわたしは、魔術の徒となった。
 なまえを受け継ぎ、世界と繋がっているために。
 けれど、忘れそうになっていた。
 自分の、なまえを。
 だから、ありがとう。
 思い出させてくれて。
 ありがとう。
 
 
 そう言って、『炎精の蝶』キリィ・ラティエス・ヴァンデインは命の炎を、ふたたび世界と繋いだ。
 暗闇のなか炎を纏い笑む姿はきらきらしく、神秘に満ちていた。
 その激しくも美しく燃える青銀色の炎に触れ、身の内に働く力が歓喜に震えて。
 結果、
「赤斑剛毛毛虫なんて食べちゃだめぇっ!」
 とわけのわからない寝言を叫び寝台から落ちたグラスランドの、目覚めの第一声が、
「……えっと。どちらさまですか」
 だった。
 その寝癖がついた頭を軽く叩いて、綺翠は大きく溜息をつく。
「どちらさま、じゃないだろうが」
 少々長めの前髪を手指で梳(す)きつつ言うこちらを、グラスランドはしばらく無言で大きな瞳を瞬かせながら見ていた。ややあって、
「うわ。綺翠だ。どうしたんですか! 人間になってますよっ?」
「おまえ、俺がもともと人間だっていうこと、すっかり忘れてないか」
 低い声で唸るように綺翠が言うと、気のせいですよ、と大きな茶色の瞳はわざとらしく宙をさ迷う。
 しかしすぐに口もとを引き締め、しばし無言で遠くを見つめ、やがて、
「……ヴァンデイン様は、だいじょうぶですか」
 その瞳には、窓の外に広がる静かな夜が映っていた。
 晴れた夜空には、宝石を砕いて鏤(ちりば)めたように星が輝いている。
 そのいくつかが、音もなく尾を引いて流れた。
「だいじょうぶ……ですよね。綺翠が、いてくれたんですから」
 にこ、とグラスランドが笑んで、床の上からこちらをまっすぐに見上げてくる。
 きらきらと、その瞳が輝いていた。
 だから綺翠は軽く肩をすくめて、笑みをこぼす。
「綺翠で、良かったです。綺翠が……ヴァンデイン様と繋がっていてくれて、良かった。魔剣ラティエスがヴァンデイン様の魔力から生まれたことは知らなかったけれど、でも、ラティエスを綺翠が軽々と持ったとき、僕は繋がりを感じた。どんな繋がりかは……わかりませんけどね」
 ちら、と悪戯っ子のような笑みを浮かべ、グラスランドはゆっくりと立ち上がった。
「二十年ほどまえまでは、西の大陸と東の大陸に交流なんてなかった。いまでさえこの西の大陸では、黒を持つひとは好奇の目で見られる。そうですよね、綺翠。だから綺翠が、東の生まれで良かった。たとえ繋がりがあったのだとしても、どちらかがそれを受け入れなければ、それはそれだけで終わってしまう。だから、綺翠。いまさらだけど、言いますね。西の大陸にようこそ。歓迎します」
 そっと、手を握られそう言われて、
「いだだだだだっ!」
 綺翠は視線を逸らしつつ、思いきりその手を握り返した。
「なにするんですかぁっ!」
「呪いをかけるのがおまえの歓迎のしかたらしいから、俺もその礼をしているだけだ」
「あ、わかった。それって照れ隠しですね! なんか、意外にかわいいですねぇ、綺翠……って、いだだだだっ! ごめんなさい、ごめんなさいっ! ひぁぁ、やめてぇ、手が潰れるぅっ!」
 そして、グラスランドが笑いつつも大きな瞳に涙を浮かべるころ、
「その辺にしておいてやれ。杖が握れなくなってしまう」
 笑みを含んだ美声が、した。
 振り返った綺翠は、その姿にしばらく瞳を奪われる。
 氷肌を引き立たせる、ゆるやかにたっぷりと襞(ひだ)のとられた雛罌粟(ひなげし)色の法服。
 その背肩に、整えられた長い黒髪が艶やかに流れている。
 まだあれからなにも口にはしていないだろうが、それでも生きる力を取り戻したせいか、顔色も良いらしい。
 ほんの少し身なりを整えただけではあったが、それでもそのひとはたおやかな花のようにそこにいた。
「ヴァンデイン様」
 グラスランドが、笑顔ながらも慌てて立ち上がる。そして、寝台脇に立てかけていた桃花心木材の杖をとり、それを床と垂直に立てて身を沈めるという、目上のものに対するものらしい魔法使いの礼を優雅にしてみせた。
 しかしそれに、『炎精の蝶』はちいさく溜息をつき、
「やめてくれ。それはわたしがおまえにすべき、礼だよ」
「なにを仰るんですか。僕なんて、ヴァンデイン様に踏まれても喜んじゃうくらいのへっぽこですよ?」
「…………そういう趣味があったのか」
 冗談であるのかそうでないのか、踏まれて喜ぶのか、と表情を消してつぶやいたキリィの漆黒の瞳が、つい、とこちらを一瞥する。
 それに、なにか助けでも求められているような気になって、綺翠はまだ頭を下げたままのグラスランドの尻を軽く蹴飛ばした。
「はうっ! なにするんですか、綺翠」
「痛い目をみるのが好きなのかと思ったんだがな。それよりも、『炎精の蝶』」
 こころなしかほっとしたようだった魔法使いは、そう呼ばれてゆるやかに弧を描く眉を寄せる。
「……キリィ、でいい」
 ちいさく音を立てて、角灯のなかの炎が揺れた。
 一度は床に落ちる『炎精の蝶』の影が、ゆら、と伸びてこちらを撫でる。
 それだけで、胸のうちにやわらかな熱が灯る。
 しかし、綺翠はともすれば甘くなりそうになる心にゆるく首を振り、キリィをまっすぐに見据えた。
「それなら……キリィ」
 そう呼びかけて、いくつか聞かせろ、と前置く。そして、キリィがそれにうなずくまえに、
「内乱を起こしたのは、ザイードなのか」
 訊けば、そのかたちの良い眉を寄せるだろうか、と思った。
 それとも、哀しげに顔を歪めてしまうのだろうか、と。
 しかし、予想に反し、
「ありえない」
 キリィはいっそ傲岸に思えるほどの口調と態度で、きっぱりと言いきった。
「あのクソバカは、わたしと同様、女王陛下を慕ってこの『蟻塚』へとやってきた。あの童女のように純粋な心を持っておられた陛下を裏切るなど、ましてやその死を無惨にもきつい日差しと衆目に晒すなど、できるはずがない。陛下を裏切ったのはあのド阿呆ではない。ならば誰が叛旗を翻したのか、などということは聞くなよ。おまえがそれを知る必要はない。とうに、虚無の砂漠へと向かった者だからな」
 しん、と静まる夜に、その言葉はどこか暗く響く。
 だから、綺翠はややあって静かに口をひらいた。
「……殺したのか」
 と。
 直後、心臓を凍れる炎で焼かれるのかと勘違いするほどの強さで光る漆黒の双眸が、こちらを射抜く。
 そして、
 薄紅色のちいさなくちびるが、ゆるり、と三日月のかたちに歪み、
「ああ。わたしの炎が、欠片も残さずに喰った」
 ざわり、と。
 熱を孕んだ闇の気配が、肌を撫でた。
 さらさらと、砂が風に攫われるような音を聞く。
 ゆらゆらと揺れる火影に、つくりだされた三日月が妖しく歪む。
 焦げたような臭いは、舞った埃が炎の舌に舐められたせいか。
 ふ、と息をついて、
「それで」
 綺翠は言った。
「それで……油断、したのか」
 そう口にしたとたん、なんだと、と目のまえの双眸が細められる。
「疲弊、したんだろう? 胸の、うちが。だから、ザイードがおまえを捕らえた。女王を殺した裏切り者を殺して、その炎で自身さえ殺してしまいそうだったおまえを、ザイードは」
「黙れ、犬ころが」
「犬じゃなくて、狼だ」
「じゃなくて、いま、人ですよ綺翠」
 横から口を挟んだグラスランドは、きっ、とキリィに睨まれて、小動物のように首をすくめた。
 キリィは苛立ったように息を吐き、瞳を逸らす。
「どれであろうと、たいして変わらないだろう。そう……わたしが、裏切り者を殺したことに変わりはない。あの……クソバカは、余計なことを、した。犯さなくてもよい罪を犯した」
 クソバカ、とザイードという名を呼ばずにそう呼ぶのは、たぶん。
 『炎精の蝶』なりの哀悼、なのだろうか。
 憎いというよりは、悲しいのだろう。
 けれど、それを覚られたくないのだ。
「わたしには……わからないよ」
 ふと俯いたキリィが、急に弱々しくそう呟くのが聞こえた。
 どれほどに。
 どれほどに強い炎を纏っていようとも。
 どれほどに強い口調で突き放そうとも。
 弱くてちいさな、身体。
「僕が、いますよ」
 声がして、はっ、と綺翠が顔を上げると、グラスランドが穏やかに笑っていた。
 え、と頼りない声がキリィのくちびるから、こぼれる。
「ヴァンデイン様。鍛えてください、僕を。立派な魔法使いになるように。そのあいだ、どれだけ僕をこきつかってくださってかまいません。でもそのかわり、いずれは『蟻塚』の五大魔導師のひとりにしてください。そうなれるように、ヴァンデイン様が鍛えてください。ついでに、僕の家族とかも引越してきちゃってもいいですよね。なんせ、僕ったら、クラウディス国では大悪党なもので、いくところがないんですよ」
「な、なにを言っている。わたしは『蟻塚』から去ろうと……」
「だめですよ。ここはお師匠様の居場所です。あなたがいるべき場所です。この『蟻塚』で、ちゃんと魔導師長を務めてください。じゃないと、僕の命にも関わってきます。ほら、世界最高位の魔法使い『炎精の蝶』の弟子、ってことになると、クラウディス王だってびっくりして遠慮しそうでしょう」
「わ、わたしは弟子など」
「責任、とってくださいね」
 笑顔のまま駄目を押す、グラスランド。
 思いがけずその勢いに飲まれて絶句するキリィを見て、綺翠は自分の胸が焼けるのを感じた。
 グラスランドには、魔力がある。
 いまの自分には、なにもなかった。
 約束を、したのに。
 人の腕が欲しい、と獣であるときは望んだ。
 それなのに、
 獣の爪が欲しい、と人であるときに望む。
 どちらも必要だと思った。
 どちらも欲しいのだと、欲の深いことを。
 そうすれば、自分も守ってやれるかも知れないのに。
 強くて脆い、美しくて愛しい蝶を。
 守ってやれるのに。
「……魔剣ラティエス」
 つぶやくように言うと、よっつの瞳がこちらを見つめた。
「あれを、俺にくれないか」
 漆黒の双眸を見つめ返して強く言うと、たぶん。
 グラスランドが微笑んだ。
「なんだと」
 キリィが眉を寄せた。
 予想していたことだ。
 あの魔剣は、ザイードがキリィから奪った魔力でつくったもの。
 キリィの知らぬところで生まれたものだ。
 ただの金属になるまで熔かしてしまいたい、とキリィならば思うだろう。
 だが、魔力は心の、魂のかけらだ。
 蝶を守るための牙が必要なら、蝶から生まれたものがいい。
 つながりが、欲しいのだ。
 もっと深い、つながりが。
 そう思ったところで、ふ、と綺翠はくちびるを歪めた。
 なんて、欲深い。
 自分はこれほどに欲深かったのか、と嗤う。
 血の罪に汚れたから、と故郷に背を向けて、ただなにも考えず流れていただけだと思っていたというのに。
 約束を思い出して、その相手と再会したとたん、
 生きたい、と。
 その存在とともに生きたい、と。
 これほどまでに、思うとは。
「ラティエスを、俺にくれないか」
 再度言うと、薄紅色のくちびるがなにかを紡ごうとかすかに動く。
 くれてやるわけにはいかない、とそう言われたなら。
 どうする。
 つながりは、絶たれるのか。
 キリィはなにを言おうとしている。
 けれど、なんどかちいさくくちびるを震わせたあと、く、と引き結ばれた。
 ややあって、
「……おまえも、クラウディスに睨まれるぞ」
 子どものようにくちびるをすこし尖らせて、言う。
 だから、綺翠は軽くふきだした。
 それは、拒否、ではなかった。
 くっくっ、と笑うと睨まれたが、それでもじわりと胸のなかにあたたかいものが広がる。
「睨まれたなら、吠えてやるだけだ」
 甘い、花の香。
 ふわり、と漂って長い黒髪に絡まる。
 不意に、グラスランドが顔を赤くした。眉を寄せて、息を殺している。
 なんだ、とそちらに瞳をやると、グラスランドがおのれの師と仰ぐキリィを見やった。
 つい、と暗がりへとそっぽを向いたキリィは、細い肩をちいさく揺らすらしい。
 どうしたのだろう、と眉を寄せ耳を欹(そばだ)てると、くちびるからは苦しげな声がもれているようだ。
 魔法使いたちは、いったいどうしたというのか。
 なぜ、ふたりとも苦しげにしている。
 不安が、ざらり、と胃を撫でた。
「……どうした」
 問うと、明らかにおかしな声がこぼれた。というより、『炎精の蝶』は思いきり、噴き出した。
「あはははははっ!」
 耐えられない、というように床にしゃがみこんだキリィは腹を抱えて笑い声を放つ。ときおり、てのひらで床を叩く。
「……あ?」
 思わず、呆ける。
 頭が白くなった。
 わけがわからないまま、不安は増大する。
 なにが起こっているのだ。
 いつまで待っても笑いやまないキリィのようすに、いったいなんだ、とまださほど苦しんではいないらしいグラスランドに説明を求めると、
「綺翠……三角の耳がぴょこんと立ってますよ」
 グラスランドも、とうとう我慢しきれずに噴き出した。
 
 
 
 
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