「な……」
耳があると思われる場所へと手指をやろうとして、しかし、綺翠はやめる。
触らずとも、わかったからだ。
『蟻塚』のまわりを流れる、ささやかな風。
部屋を暖かな色に染める蝋燭の上の、揺れる炎。
雛罌粟(ひなげし)色の上を滑る、艶やかな漆黒の髪。
いまは笑みをも含む、不安と喜びとをないまぜにしたかのような、息遣いと鼓動。
人の耳では聞こえないはずの、音。
それが、魔狼であったときとおなじほどの鮮やかさで、聞こえる。
しかし、
「魔法は解けたんじゃなかったのか……」
笑いやまないキリィに向かって訊ねると、
「おい、グラスランド。おまえは、呪いを解いたか」
瞳に涙を浮かべながら、おなじく笑いすぎて腹筋が痛むらしい弟子をキリィはつついた。
「い、いえ、僕……ふふっ……な、なんにもしてませんよ。っていうか、解き方知らない、ってまえにも言いました……ぷふふ」
「だ、そうだぞ」
両のてのひらを見下ろしてみるが、しかしそこに獣の前足はない。
「どうなってるんだよ」
眉を寄せると、さあ、とキリィは華奢な肩をすくめてみせた。
「だが」
つづけるその声音に、甘い花の香が絡む。
同時に、吐息に感じる不安の色が濃くなったように思う。
なんだ、と悪戯な笑みを浮かべたままの顔をまっすぐに見つめると、
「だが、呪いを解くことができるのは、呪いをかけた本人であるグラスランドだけ。知らない、というのなら、グラスランドが解呪法を覚えるまで待つか……いまのままで過ごすか。とはいえ状態は、人と獣、どちらにも安定していないらしいな。訓練すれば、必要なときに魔狼の姿や能力を引き出すことができるようになるのかも知れんが……まあ、いまは、まだ無理だろう。そうやって、聞き耳を立てようとして、知らぬまに耳が狼のものになるくらいだ。そんな中途半端な人狼、ほかの国では受け入れられそうにないな」
「うるさい」
そう、溜息混じりに短く言ったあと。
ふと気付いて、綺翠は白い顔を見つめた。
どこか寂しげに瞳を伏せた、その顔を。
ほかの国では。
と、星が囁いて寄越した、遠まわしの誘い。
あ、とわずかに瞠目すると、グラスランドに軽く足を踏まれた。その茶色い瞳が、なにやってるんですか、と呆れている。
おそらく。
二度目は、ない
弱いおのれを、隠そうとして。
傷つけるかも知れないということを、恐れて。
遠まわしで、一度きりの、誘い。
「……キ、リィ」
それに、気付くのが遅れた。
つながりが、切れてしまう。
しかし、そのとき。
グラスランドがちいさく肩をすくめた。
「お師匠さまぁ」
子どものように顔を歪めて、情けない口調で言う。
「僕には実験台が必要だと思うんですよね」
「は……?」
「それに、綺翠ってどこか抜けてるっていうか……騙されやすいから、魔剣ラティエスがクラウディスに取り返されてしまうかも知れませんしぃ」
その言葉に、どういう意味だ、と口を開こうとすると、こちらの足を踏む足に力が込められた。
黙れ、ということなのか。抗議しようとすると、足を圧す力が増す。
「それに、いまの『蟻塚』にはわんこの手でも必要だと思うんですよねぇ。ね。お師匠さま」
ね、とかわいらしく小首を傾げてグラスランドが言ってみせると、キリィの顔が変に歪んだ。
さまざまな思いによってか歪んだ白い顔に、綺翠は吐息だけで笑う。
口に出せないのならば、こちらから言ってやればいいのだ。
そのために、魔剣ラティエスを望んだのだ、と。
切れてしまいそうならば、もう一度つないでしまえばいい。
「グラスランドの実験台はともかく。寝る場所と飯と、あとほんのちょっとした目的をくれるのなら……いてもいい」
グラスランドだけではない。
俺もいる、と。
声には出さすに、けれど、その思いを乗せて、言う。
すると、きらり、と漆黒の星が閃いた。
に、ととたんに意地の悪そうな笑みを、おとなしくしていれば清楚に見える少女のような顔に浮かべ、キリィは言う。
「だったら、そこのはんぶん狼とへっぽこな弟子に最初の仕事をくれてやる。明日の朝いちばんから、『蟻塚』の清掃だ」
傲岸(ごうかん)な口調で。
どこか嬉しそうに、頬を染めて。
それをごまかすように、キリィは鮮やかな雛罌粟(ひなげし)の法服の懐から、金の懐中時計を出した。
「……その時計、流行ってるのか……?」
懐中時計からはやはり緑色の小鳥が元気良く飛び出し、それを見て思わず訊ねるが、きれいに聞かないふりをされる。
「夜明けまでは、あと五鳴きと十八翼、二十一嘴(はし)。まだ寝られるのならば、寝ておけ」
「なんなんだその時間の単位は……というか、おまえはどうするんだ」
わたしか、と小鳥のように首を傾げたキリィが、わずかの間のあと、星の輝きをうちに秘める双眸を紫紺の空へと向けて。
「氷の褥(しとね)で嫌というほど眠らされたからな……しばらくは、眠らずにすむ。忙しくなるなら、それもいいだろう」
微笑んだそのくちびるから、音にはならない呪文がこぼれ、青銀の蝶が漆黒の髪の影からふわりと舞った。
静かに、その蝶を白く細い手指にとまらせて。
痛みに、愛された。
思い出した声音に思わず、その手指を握りこむと、慌てた蝶が炎の鱗粉を宙に撒きつつ舞い上がる。
軽く瞠目したキリィは、しかし、振り解こうとはせずに、
「綺翠」
歌うように、澄んだ声でそう唱える。
あの日と、おなじように。
「……いいのか」
訊ねられて、なにがだ、と笑った。
あらためて訊く必要など、ないだろう。
後悔は、しない。
すべてはこれからだ。
なぜなら。
青く燃える宝石のような蝶を、暗い闇のなか、みつけた。
それ以上の神秘など、あるものか。
これ以上の驚異の事象がほかに、あるのか。
さあ、来い。
痛みと熱に溢れた世界よ。
優しく冷たい世界よ。
霧の彼方に埋もれるものを嗅ぎわけるこの鼻で、雑多のなかからただひとつを聞きわけるこの耳で、
おまえのすべてを、受け入れよう。
鮮やかに凄絶に輝いて、圧倒してみせろ。
天地の狭間に響く、魂の歌声を聴こう。
空と海とを混ぜるような心の輪舞を、感じよう。
見えない先は、怖い。
けれど。
これは、力だ。
恐れることなど、ありはしない。
この命は、世界だ。
繋がっているのだ。
先が見えなくとも、歩んでいける。
いけるとも。
「あのぅ……僕がいること、かるぅく、忘れてません? ねえ、お師匠様。綺翠ってば」
まだ暗い『蟻塚』に、笑みがはじける。
命が、灯る。
(終わり) 2000 鳳蝶