茫漠とした暗い穴のような、瞳。
 それがゆっくりとこちらを見る。
 いまにも、消えてしまいそうだった。
「ふざけるなよ、『炎精の蝶』。出て行け、だと? 俺たちを呼んだのはあんただろう。グラスランドはあんたが飛ばした魔力を拾って、ここへきた。農家の小僧が、あんたの力になりたい一心で、自力で宮廷魔法士にまでなって、クラウディス王宮から魔剣を盗んで。そんな、無茶苦茶なことをして。頼んでいない、とでも言うか? それを言ったなら、嘘をつくことになるぞ、魔法使い」
「……う……るさい」
「あんたは、助けが欲しくて炎の蝶を飛ばしつづけたんだろうが。いくつも、いくつも!」
「黙れ」
「黙るかよ。あいつがどんな思いでここに来たか、あんたはわかっているか。顔もなまえもわからないあんたを、どれだけ心配していたか、わかっているかよ」
 そう言ってまっすぐに睨み据えると、『炎精の蝶』の顔が歪んだ。
 折れそうなほどに細い腕が上がり、躑躅(つつじ)色の法服の袖が白い肌の上を滑る。
 震える両手で耳を塞ぎ、
「……やめ、ろ」
 そのままふたたび、『炎精の蝶』は冷えた床の上に崩れた。
「わかって、いる。けれど……わたし、は……」
「心配しなくても、あいつはあんたの炎にあっけなく燃やされてしまうほど、柔じゃない。もちろん、俺も、な。まえにも、言っただろう?」
 え、と瞳を上げるその顔が、ひどく無防備で幼い。
 理性ではこちらを突き放そうとしているのだろうに、感情のすべてがいまにもこちらへと雪崩れそうになっている。
「……ま、え……?」
 色のないくちびるが、かすかにつぶやいた。
 どうすればいいのだろう。
 どうすれば、蝶を覆う痛みの一端を引き受けることができるのだろう。
 しばらくは、ただまっすぐに暗い穴を見つめていた。
 そこにふたたび星の輝きを取り戻す方法はないものか、と考えながら。
 ぼろぼろの魂を、世界と繋げるためには、どうすればいいのかと。
 やがて、あぁ、と綺翠はその翡翠色の瞳を穏やかにする。
 世界と魂をつなぐもの。
 それがなんであるのか、思い出す。
 あの日、それまでは冷たく背を向けていたように思えた世界に、はじめて祝福されたような気がした、あのとき。
 あのとき、自分に与えられたものを、思い出す。
 だから、言った。
「キリィ・ラティエス・ヴァンデイン。もう一度、言う。俺は、来た。あんたに呼ばれたから、来たんだ。俺は……綺翠だ」
 綺翠。
 そう名乗ると、漆黒の双眸がゆっくりと瞠られる。
「あの日、水の花の園で、あんたがくれた名だ」
「……き、すい……?」
「それとも、これも俺の勘違いか? 勘違いだ、というのなら、それでもかまわない。でも、それなら教えてくれ。俺がここにきた理由は、なんだ。俺は、なぜ生きている。俺の名に、意味は……なかったのか?」
 あの祝福がなかったなら、いまの自分などありはしない。
 とうに身も心も泥のなかに捨てて、なにもかもを諦めていたことだろう。
 だから、どうか。
 意味がないなどと言わないでくれ、と。
 じっと、『炎精の蝶』はこちらを見つめていた。
 ただ、黙って。
 そして、どれほどの時間が経ったのか、そろそろすべてが夜の闇に沈もうとするころ、
「……そう。すべての事象には、理由がある」
 静かに目蓋を伏せた『炎精の蝶』はそう言って、すい、と立ち上がる。
「それに普段気付かないからこそ、必然を偶然と錯覚する。だがその理由に気付いたとき、運命は動く。魔法は、発動する」
 暗闇のなかでもはっきりと、鮮やかにその姿は綺翠の瞳に映っていた。
 ふたたび現れた、漆黒の瞳。
 言葉は、こぼれてこなかった。
 それが光を湛えた、あまりに美しいものだったから。
 つ、とそこから流れて真白い頬を伝ったものが、世界に残る光のすべてを抱えるようにして輝きながら、落ちた。
 ようやく会えたのだ。
 そう思うと、胸が熱くなった。
「夢なのだと……思っていた。ずっと」
 涙をこぼした『炎精の蝶』が、ゆっくりと左手を宙に伸べる。
 なにもないはずのそこから不意に、青銀の光がこぼれた。
 一瞬強く輝いたそれはやがてやさしい光に変わり、そしてその光のなかから、
「……それ、は」
 綺翠の故郷にしか咲かない、青い水の花。
 瑞々しいままに、その花が現れる。
「カナンリルドへとくるまえ。一度、死にかけたことがあった。そのとき、ひどくやさしい夢を見て……生きる力を取り戻したことが、あった。目を覚ますと、この花を手にしていて。それからは、ずっと……この花を支えに生きてきた」
 甘くてやさしい、花の香。
 それが、す、と近付いて。
「ラティエス……わたしに言葉をくれたひとが、言っていた。生きるということはそれ自体が魔法、と」
 ほんのすぐ目のまえに膝をついた『炎精の蝶』が、花のような笑みを浮かべる。
 闇のなかで咲く花が、心を包み込むようだ。
「生きるということは、それ自体が魔法。なまえという強大な呪文で魂と身体は、ほら」
 ほら。
 と、伸ばされた白い腕に、首の根を抱き寄せられた。
「こうして、ここに」
 いま、人としての腕がないことが、ひどく残念だった。
 獣の腕でなければ、この花の香ごと抱き包んでやれたのに。
「……綺翠。たしかに、その瞳だった。あのときの、ちいさな子ども」
「ああ、俺だ」
「おまえが生きることに意味がないわけが、ない」
「……ああ」
 声が、どうしようもなく震えた。
「キリィ・ラティエス・ヴァンデイン」
 抱き包むかわりに、みたびその名を唱える。
 自分でも信じられないほどに、甘い声音だったと思う。
 それに、そうだ、と声が返った。
「それは、わたしのなまえ」
 『炎精の蝶』がそう言うと同時に、夜の闇に沈んでいた世界が青銀の光に溢れる。
 『蟻塚』の、いやカナンリルドのそこかしこに散らばった魔石が力を取り戻し、蝶となって闇に舞う。
 銀河のように連なって、主のもとへと集まってくる。
 ひとつに、戻ろうと。
 生きよう、と。
 そして、
「ありがとう、綺翠」
 そう、言われて。
 無数の蝶に囲まれ、その輝きに包まれて、綺翠は喘ぐようにして宙を仰ぐ。
 
 生きよう。
 
 心の奥底から込み上げた熱いものが、こぼれそうになった。
 
 
 
 
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