「赤斑剛毛毛虫っ!」
 突然聞こえた声に驚いて跳ね起きると、椅子に腰かけたグラスランドが、怖いよぅ、と寝台にうつ伏せた状態で眠りながら言っていた。
「……あかまだら? なんだそれ」
 呆れつつも、身体の痛みが大方拭われていることに気付き、腹のなかに笑みを落とす。
 まだすこし肋に痛みがあるものの、じゅうぶん動けるようだ。
 綺翠は四肢を突っ張り身体を伸ばすと、寝台から飛び降り、かわりに頭でグラスランドの身体を寝台へと押し上げた。
 すると、子どものような顔で眠るグラスランドが、ごろん、と寝台に仰向けになり、気の抜けた笑みを浮かべる。
「おばあちゃん、すごいやぁ。力持ちぃ」
「俺はおまえのばあちゃんじゃないぞ」
 言いつつ、部屋を見回す。
 魔法によるものなのか、グラスランド自身の手によるものなのか。あの後のことを考えるならば、手間をかける余裕などはないだろうからおそらくは前者であろうが、埃が払われ整えられた部屋には、書棚がずらりとならんでいた。
 綺翠には読めない言葉で綴られた表題ばかりだ。
 窓のそばにある机の上には、硝子瓶やら鉱石のかけらやらの入った器やら。
 それほど地位が高くはない魔法使いたちの部屋だったのか、もう一台の寝台が間仕切りのむこうに。
 しかし、そこに『炎精の蝶』の姿はなかった。
 ひとの鼻ではわからなかっただろうが、残り香は、ある。
 自分がどれほどのあいだ眠っていたのかいまは知れないが、どうやらすこし、あちらのほうが目覚めるのは早かったようだ。
 匂いをたどって、綺翠は部屋の外に出る。
 『蟻塚』のなかは、氷の魔法が解けたいまもなお、まだひんやりとしていた。
 どこか物悲しくて、暗い廊下をひとり歩むうちに、胸がつぶれそうになる。
 ざり、と足もとで鳴るのは、赤い魔石。
 踏み躙られた階段を駆け上がり、最上階へと上がった。
 並んで凛々しくも美しく剣を振り上げていたのだろう女兵士たちの石像は、散々に破壊されて、赤黒い染みに汚れた絨毯の上、残忍な眠りのなかに落とされている。
 カナンリルド王宮が『蟻塚』と呼ばれているのは、カナンリルドが女系の国家であるからだ。それは話に聞くだけでなく、残された宮殿内の装飾などから見ても明らかだった。
 だからこそ武力よりも魔術が盛んだったのだろうが、逆に武力で攻められることには脆かったのかも知れない。
 ちからずくのあとが、嫌でも目についた。
 だが、そうなってくると、内乱を起こしたのはザイード・アルノーではないということにならないだろうか。
 『炎精の蝶』を捕らえたことは確かだが、直接内乱を引き起こしてはいないのではないか。
 いや。本音をいうならば、そう信じたいだけであるのかも知れない。
 
 きみも、惹かれはしなかったか。
 
 彼にそう問われて、さあ、と答えたけれど。
 その通りだったのかも知れない。
 ずっと以前から、なまえも知らないころから、たぶん。
 惹かれていたのだろう。
 ザイードの気持ちがまったくわからない、とは思えないのだ。
 そう、おそらくは……
 
 カツッ。
 
 大理石の床に爪があたる、軽い音。
 窓からは橙色の光が流れ込み、虚しい玉座の間を包んでいる。
 そこにただひとり、凍りつく冬に取り残されたかのように鱗粉(りんぷん)の剥げた薄い翅(はね)を引き摺る、蝶。
 足音を隠さないまま近付いて、すぐそばに座った。
 魔法によって傷は癒えたものの、毛並みまではもとのようには戻ってはいない前足を滑らせるようにして、そのまま伏せる。そして、
「キリィ・ラティエス・ヴァンデイン」
 まずは静かに呼びかけ、
「来たぞ。あんたに、呼ばれたから……来た」
 すぐそばにある身体は、幽閉されていたせいもあってか、ひどく肉が薄く細い。ほんの少し触れる手に力を込めただけで、容易く壊れてしまうのではないかと思うほどだ。そして氷のように白い肌は、透明であるからこそ寒々と、いまにも心の重みに折れそうなその身体を包んでいる。
 『炎精の蝶』キリィ・ラティエス・ヴァンデインは、十四、五の少女の姿。
 けれど、空の玉座をまえに座り込んだその姿がいまは、疲れきって背の曲がった老女のように見えた。
「……勘違いだ、狼。呼んでなど、いない」
 だから、放っておけ。
 ひとりにしろ。
 と、かすれた声が、床にまで届く長い黒髪の隙間から。
 しかし、綺翠はゆるりと首を振った。
「あんたからは、わずかだが……花の匂いがする」
「……なに」
「俺の故郷にだけ咲く、水の花だ。その匂いがする。あんたは……東の大陸の生まれなのか」
 東の生まれか、と訊ねたのは、蝶の髪と瞳が漆黒であるから。
 その色は、西の者には出ないものだから。
 そしてなにより、故郷の花園で出会っていたから。
 
 そう、出会っていた。
 
 どこにいけばいいのか分からず、自分がなんであるのか知れず、そしてなぜ生きているのかも教えられず、ただ泥水を啜り溢れる痛みに身をさらすようにして生きていた、まだ幼いあの頃。
 なにもかもから逃げ出したくて忍び込んだ場所は、天上にあるかと錯覚するほどに美しく透き通った青い花園だった。
 美しい夢のような、思い出。
 あの日、その花園での約束をした、相手。
 それは、『炎精の蝶』だ。
 涙の匂いを纏わせながらも、星の瞳で祝福をくれた、やさしいひと。
 そして、風のなかであのひとが名乗った名はおそらく、『ラティエス』。
 聞こえてはいなかった。
 けれどいまは、そうである、と心が教えて寄越すのだ。
 自分にとっては羽根のように軽く振るうことのできる、魔剣。
 その声が聞こえたことも、狼の耳と瞳をもってしてのことではないと思うのだ。
 戦のあと故郷に帰らず西の大陸に流れてきたことにも、魔石に導かれ魔剣ラティエスを盗んだグラスランドと出会ったことにも。
 理由があるとするならば、そこに繋がる。
 あの青い花園。
 そこで交わした、約束に。
 だが、蝶は黒髪の影でくちびるを歪めた。
「……わたしは……この西の大陸で生まれ、一歩たりとも大陸の外に出たことはない」
 重く暗い、声音。
 だからこそ、自分の記憶にはない罵倒を思い出す。
 生まれるはずのない黒を纏うものに向けられる、悪意と恐怖の声を。
 
『おまえのような悪魔は陽の光に焼かれて、消えてしまえ』
『気味が悪い!』
 
「おまえの、勘違いだ。狼」
「それなら……あんたは、ただの偶然だというのか。俺が、ここにいることを。グラスランドは言ったぞ。偶然などない、と。あるのは必然。偶然だと思うのは、そこにある理由に気付いていないからだと」
 あんたはそうは思わないのか。
 グラスランドが間違っていると、あんたは思うのか。
 そう問うと、答えの代わりに、不意に乾いた笑い声が吐き出された。
「狼。さっきからなにを言っている。いいか。身勝手な勘違いを押し付けてくれるなよ。わたしは西の大陸から出たことなど一度もないし、おまえなど知らない。おまえの理由など、わたしは知らない」
 疲弊した眼差しを、主のいない玉座に向けたまま。
 黒檀の杖が転がる冷たい床に、座り込んだまま。
「……さあ、もうわかっただろう。これ以上関わってくれるな。あの風の小僧を連れて、さっさと宮殿から出て行くがいい」
 衣擦れの音とともに、『炎精の蝶』はふらりと立ち上がった。そのまま背を向け、立ち去ろうとする。
 まるで魂が抜けているかのような、覚束ない足取り。
 いや。事実、魂の欠片である魔力が凝固した魔石は、いまだにあちらこちらに散らばったまま。
 それを取り戻そう。
 生きていこう。
 そんな思いは、もはや抱いてなどいないのだろう。
 西の大陸に黒を纏って生まれたせいで悪魔と罵られ、それでもようやく見つけた『蟻塚』という居場所を失って。
 名と魔力を奪われたせいで自分の愛した国と女王を救えず、自分だけが取り残されて。
 けれど、
「……ふざけるなよ」
 つぶやくように、綺翠は言う。
 すると『炎精の蝶』がふと足を止め、頼りなく細い肩越しにこちらを振り返った。
 
 
 
 
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