「……なまえ」
 不意に言われて、え、と首を傾げると、微笑みを湛えたそのひとが、
「おまえのなまえは? なまえを知らなくては、呼べない」
 けれど、なまえを問われて困った。
「俺……なまえ、ないんだ」
 嘘などでは、なかった。
 母親は傾城で、父親が誰なのかさえわからなくて。子どもがいると邪魔だから、と泥のなかに捨てられた。
 それからは、地べたを這いずり泥水を啜るように生きてきて。
 だから、ちゃんとしたなまえなど持ってはいない。
「……そう、か」
 けれどそのひとは、なにがあったのか問わないまま、花のように笑った。そして、
「わたしも、むかしはなまえなどなかった」
「そうなの?」
「そう。いまは、わたしに言葉を与えてくれたひとのなまえが、わたしのなまえ」
 それを聞いて、自分の顔に明るい笑みが浮かぶのを感じた。
「だったら、ねえ。俺になまえを、つけて」
 あなたがなまえをつけて。
 そう言うと驚いた顔をされたけれど、いいことを思いついた、と嬉しくて。
 心が、弾んだ。
 それからしばらく、そのひとはじっとこちらを見つめていた。
 光り輝く、瞳で。
 やがて、
 
「『綺翠』」
 
 歌うように、澄んだ声音で言った。
「キスイ?」
「そう。綺麗な翡翠色をしているから、綺翠」
「ひすい、いろ……?」
 よくわからなくて首を傾げると、そのひとがわずかに戸惑うように眉を寄せ、
「……いや?」
「ううん! いやじゃないよ」
 慌てて首を振る。
 嫌であるはずが、嬉しくないはずが、なかった。
 綺翠、となにかたいせつな呪文でも唱えるかのように、何度もつぶやいてみる。
 胸のなかに、なにか温かいものが灯ったような、気がした。
 いままで冷たかった世界に、はじめて祝福でもされたような、そんな気がしたのだ。
 だから、言う。
「……ありがとう」
 そっと、温かい胸のうえに手を当てて。
 じっと瞳を閉じ、心の底から。
 けれど、
「ねえ。あなたのなまえも教えて」
 そう言って顔を上げたとき、風が吹いて。
 そのひとの姿は手渡した花とともに、消えていた。
「待って! 俺、なまえを聞いてない!」
 風のなかで叫ぶ。
 すると、微笑みを含んだ声が、どこからか聞こえたような気がする。
 けれどそのひとが、なんと名乗ったのかはわからなかった。
 それがとても残念で。
 それでも。
 どうしてだか、悲しいとは思わなかった。
 たぶん、また会える、とそう思ったから。
 なぜなら、約束をした。
 なまえを、与えられたから。
 だから、青い花園にひとり残されて、自分に与えられたなまえを唱えてみる。
 そして、ふと気付いた。
 青銀の花と碧緑の葉の、隙間。
 そこに見える清らかな水鏡に、自分の姿が映っていることを。
 星のような漆黒の瞳が、なまえを探すようにじっと見つめていたのは、そう。
 この、瞳。
 翡翠色の、瞳だった。
 
 綺麗な翡翠色だから、綺翠。
 
 呼ばれたなら、必ず行く。
 それまではどんな場所にあっても、生きていこう。
 
 甘い、甘い花の香がした。
 
 
 
 
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