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不思議な、感覚だった。
心が解き放たれるような、そんな気がした。
青い、青い静謐なる世界。
風がやさしく渡って水面に群れ咲く花々を揺らし、頬を撫でていく。
碧緑の蕊(しべ)をやわらかく抱える透きとおった青銀の花びらは、瑞々しい微笑みを湛えてこちらを見つめていた。
艶やかな葉の下に流れる清らかな水の匂いに混じって、甘い芳香が漂う。
立ち入りを禁じられた、泉の花園。
空の青と地上の青のただなかで、どれほど佇んでいただろう。
すべての痛みが、洗い流され清められていくようで。
知らぬまに、涙が頬を伝っていた。
すぅ、とやさしい花の香を吸い込むと、胸のなかのなにもかもが溶け消えていくようで。
腿のあたりまで水に浸したまま、ただ、
声もなく、泣いていた。
ふ、と。
背後になにかの気配を感じたのは、どれほど佇んだころだったろう。
振り返ると、花園の一歩てまえ、濃い緑の森の端に、いつのまにかそのひとは現れていた。
あたまからすっぽりと黒い布を被り、純粋な影のように。
はじめは、恐れた。
けれどすぐに、恐れは消えた。
森のなかに溶けてしまいそうなほど、静かだったからだ。
精霊かなにか。もしもそんな存在があるのだとしたなら、そのひとはきっと、それに近い。
そんなふうに、思った。
けれど不意に、涙の匂いがしたのだ。
自分のものではない、涙。
痛みを洗い流すものではなく、痛みのただなかにあるような。
そんな、匂い。
特別鼻が良いわけではない。
けれど、そう感じた。
「……どう、したの」
くちびるから滑り落ちたのは、そんな言葉だった。
その音に、つい、とそのひとが顔を上げる。
纏う黒のなかから、白い肌が現れた。
触れたならその体温で融けてしまいそうなほどに白い、氷雪の肌。
「どうしたの」
もう一度問うと、咲き初めの花のような薄紅色のちいさなくちびるが、かすかに動く。
「……おまえは、どうしたの」
たとえるのならば、青銀の花を咲かせるために必要な清らかな水が含む、やわらかな輝き。
そんな声音が、問い返してきた。
「俺?」
首を傾げると、そのひとは静かにうなずく。
「泣いているだろう」
やさしい声に、ほっと息をついて頬に手をやった。
「うん。そうみたい。でも、俺はだいじょうぶ」
涙を拭うと、すこし笑う。
泣いているところを見られるのは照れくさかったが、なぜか嫌ではなかった。
いつもなら、ひどく嫌であるはずなのに。
「ねえ。こっちにこないの? こっちのほうが、水の花、綺麗に見えるよ」
誘うと、そのひとはわずかに綻ばせていたくちびるを引き結んだ。
「……どうしたの」
みたび問うと、ゆっくりとそのひとの首は横に振られる。
ふわり、とそのしなに、黒い布の影から蝶が舞い出てきた。
花とおなじ、青銀の色をした蝶だ。
「わぁ……」
陽光に煌く美しい蝶に、しかし、瞳を輝かせたのは一瞬のこと。
蝶は、そのひとに纏わりつくように舞うばかりで、やはり花園へは入ってこようとしない。
芳香を漂わせる癒しの花が、泉を埋め尽くすほどに咲いているというのに。
「……痛みは、炎を生む」
ふと、そのひとが言った。
「え」
「世界は、痛みに溢れている」
「痛み?」
「そう、痛み。わたしは……痛みに愛された」
ほら、と氷肌(ひょうき)に包まれた手指を、宙に差し出す。するとそこに、青銀の蝶が留まった。
ゆっくりと上下する青銀の鱗粉を振り撒くその翅(はね)が、陽光の加減であるのか、ゆらり、と燃えるように揺らめく。
それ自体がまるで、高温の炎のように見えた。
そしてそのひとは、ひどく哀しげに言う。
「わたしは痛みに愛された。だから……そちらへは、行けない。この眺めを、燃やしてしまいたくはないから」
だから、幼い手で花をひとつ、摘んだ。
清らかな水を、煌きのなかに跳ねる。
「痛い?」
返事は、なかった。
それでも光を含んだ水を滴らせながらゆっくりとそばに寄り、心に染みるほど美しい青を差し出して、
「その痛みは、癒せないの?」
すると、軽く瞠った瞳が、こちらをまっすぐに見る。
星のような、綺麗な黒だった。
吸い込まれてしまいそうなほどに、黒い、美しい瞳。
「ねえ。だいじょうぶだよ。燃えたりなんか、しないよ」
ほら、と言って、その白い手をとる。
慌てたように、蝶が離れていった。
そしてその、すこし冷たい手に、花を。
「ほら、ね。だいじょうぶ」
「……で……も、わたしは……」
「いつか、癒えるよ。それまで、俺が守ってあげる」
この手はまだちいさいけれど。
力なんて、ないけれど。
「……え」
「痛くてどうしようもなくなったら、俺がすぐに行ってあげる。そのときは、呼んで」
必ず行くから。
約束するから。
戸惑いを含む漆黒をまっすぐに見つめ返して言うと、たちまちそこに光が生まれ、溢れたそれが、白い頬に伝った。
「どうしたの。痛いの?」
慌てると、そうではない、とそのひとはゆるく首を振る。
そして、握らされた花にそっと顔を寄せ、その芳香を胸に吸う。
頬を伝う涙が、青い色彩を映し宝石のように輝きながら、落ちた。