「もちろんです」
手伝ってくれ、という『炎精の蝶』の言葉に、はい、とグラスランドは力強くうなずく。しかし杖を握りなおすそのとちゅうで、ふ、とこちらへと気遣うらしい視線を寄越してきた。
それに、綺翠はゆるく首を振り、
「何度も言わせるなよ、グラスランド」
この身体を癒すための魔力があるのなら、それを使って、いまやるべきことをしろよ。
魔力も時間も。
無駄に、するな。
「ザイードは、俺がひきつける。俺も長くはもたないだろうから、さっさと……終わらせてやれよ」
さあ、はやく。
はやく、ラティエスの刃で貫いてくれ。
もはや人の言葉ではない言葉でそう叫ぶ、ザイードの意識がまだそこに消えないであるうちに。
ほんとうの悪魔へと成り果てるまえに。
終わらせてやれ。
そしてそれまでは、もってくれ。
祈るように、呼吸を静かに整える。
「その命、落とさない程度に、頼む」
ふと、長く幽閉されたために弱った身体を引き摺るように歩み出しながらも、けれどそれを押さえ込もうとする気の強い、白い横顔が言った。
「……あんたこそ、ぶっ倒れるなよ」
そう返すと、『炎精の蝶』の色のないくちびるの両端が、かすかな笑みに歪んだ。
そして、
綺翠は翡翠の双眸を、伏せる。
痛みよ。
この身を焼くなら、焼けばいい。
熱のかたまりとなって、燃え尽きるまで。
ただし、支配はされるな。
意識は冴えていろ。
おのれがおのれで、あるために。
戦え。
自分に言い聞かせ、す、と上げた瞳でザイードを見据えた。
ラティエスを咥えると、一歩、足を踏み出す。
灼熱の痛みに、呼吸が詰まった。
だが、同時にあたりに響き渡る澄んだ金属音に、意識が冷える。
ふたりの魔法使いが床に杖の石突を打ちつけたそこを中心に、複雑な魔法文字と模様とが組み込まれた白金の魔法陣が、音もなく咲いた。
ザイードが咆哮する。
空気を震わせ冷えた床を這う低音とともに魔力の波動がひろがり、真正面からそれを受ける漆黒の毛並みが逆立った。
咆哮を吐き終えた鋭く細かい牙が並ぶ巨大な顎から、糸を引いて落ちる涎(よだれ)が、つ、と床に届いたそのとき、ザイードと綺翠は同時に踏み込み一気に距離を詰める。
力ずくの爪は身を屈めて避け、ラティエスの透きとおった刃で擲(なげう)たれた氷を返す。その反動で顎が痺れ肋骨に衝撃がくるが、そのまま斜めから斬り上げ、壁を蹴って身体ごとを返し横に薙ぐ。
しかしザイードは、体液であるのか濁った粘液を散らしながら、突進してきた。
それを跳んで避けると、勢い余って通り過ぎた醜い背に向け、魔剣の刃を右から斜めに滑らせる。
だが肉を裂く寸前、その背骨から背鰭(せびれ)のように飛び出した氷の剣に刃を挟まれ、左へと押された。
放すか、とラティエスを咥える顎に力を入れると、突き出す刺の先が開く。
魔法。
魔法を放つつもりだ。
この至近距離で氷の刃を浴びれば、下手をすると首も落ちかねない。
綺翠がそう、内心で舌打ちをしたそのとき、背後から魔法使いに澄んだ音を浴びせかけられ、ザイードに一瞬の隙ができる。その隙を、見逃さなかった。
刃を捕らえる氷の剣の根元に近いあたりを、跳ね上げた両の後足で、力任せにまっぷたつに蹴り折ってしまう。そして、怯んだザイードを、着地後すぐに低い位置から咥えなおした魔剣で斬り上げた。
ザッ、と飛び散った濃い緑の体液。
それを後ろに跳んで避けたものの、グラスランドの袖を巻きつけた後足の反応が遅れたためによろけてしまい、右の前足に体液を浴びる。
じわ、と酸い臭いに混じって、血の臭いが鼻につく。
見ると、肉が爛(ただ)れ、わずかに骨がのぞいていた。
遅れて、さらなる激痛。
とっさに動きを止めると、空気が鋭く啼くのを耳に聞く。
目の端に、空気を横に裂いて襲ってくる三本の黒い爪を見た。
「循環する血液は、流動する魔力。呼吸する精神の拍動は、脈打つ物質の波動。白金の肌と金剛石の牙を持つ、青銀の焔(ほむら)から生まれし魔剣ラティエスの力を発する!」
グラスランドの声が、飛ぶ。
断ち切られた鬣(たてがみ)の漆黒が、ぱら、と宙に舞った。
頭のすぐ上を過ぎる爪を見届けると、とっさに伏せた綺翠は床を転がりその反動で起き上がった。
そして、詠唱にもうひとつの音が、加わる。
「朝露の光、黎明(れいめい)に飛ぶ鳥の羽、癒しの泉に跳ねる煌き。紡がれし光の粒子を、我が掌中に集めん。冷却され凝縮する星は、黄昏のむこう、沈黙の砂漠にて永劫に眠れ。不要の魔力を塵(ちり)とし消し去る、閃光の白刃」
さきほどのような、かすれ声ではない。
それは、清流のなかに光を溜めた硝子が転がるかのような、澄んで流れる声音。
朗々たるその『炎精の蝶』の高音と、そしてグラスランドの若草を思わせる凛と響く低音は、おなじ速さで呪文を詠唱し、不思議に溶け合いひとつとなる。
黒雲のむこうにひろがる天から降り注ぐような、清麗な音。
それが魔法陣からほとばしる白く眩しい光とともに、『蟻塚』を支配していく。
綺翠は直前、瞳を閉じた。
そして、光に瞳を焼かれ悲鳴を上げてよろめくザイードの位置を、目蓋を閉じていてさえ強烈な刺激を受ける光のなか覚ると、すばやくラティエスの刃を床と水平に振る。
ずぶり、と泥沼に突っ込むような感触が顎に伝わり、その身体を半分ほど斬ったであろうあたりで、刃が止まった。
刃を進めようとしても、力がそれ以上入らない。
耳鳴りが、する。
『獣(けだもの)めっ』
『おまえのような悪魔は陽の光に焼かれて、消えてしまえ』
『弟を返せ!』
『気味が悪い!』
これは、誰の記憶だ。
自分のものであるのか、それとも。
しかし、ふと、静かだがはっきりとした高音のみの詠唱が、耳鳴りを押しのけ飛び込んできた。
「我が名のもと、封じられし魔力をここに解き放ち、この術を発動する」
とたんに、魔剣ラティエスの刀身から魔力が噴き出すのを、感じる。
澄んだ刃を穢れのなかに沈めたまま、傷付いた身体の底からの力で、衝撃に耐えた。
背けた瞳は、光の魔法の中心に向けられているはず。
強い光で視力を失うかも知れない。
だが、そうせずにはいられなくて、わずかに瞳を開き、光り輝く巨大な花を見た。
燃える白金のむこうに、杖を立て床に片膝をついて呪文を唱えつづけるグラスランド。
そして、輝きこぼし咲き誇った絢爛(けんらん)たる魔法陣の花の上に、神秘と荘厳さを纏い青銀の翅(はね)をひろげる、『炎精の蝶』。
ゆるく伏せられた白くやわらかそうな目蓋の下の瞳と、噴き上がる魔力に流れる長い髪。
漆黒は、魔力の青銀をうちにして燃え輝くようだ。
白い花は蝶の歌に歓喜し、青銀色に移ろう。
その色彩に、心を奪われた。
故郷に咲く美しい花とおなじ色彩に輝く、花。
帰りたい、と望みながらも背を向けた場所が持つ、懐かしく切ない色彩。
太陽の蝶と呼ばれる青銀の炎を持つ魔法使いは、そして、呪文を結ぶ。
「我が名はキリィ・ラティエス・ヴァンデイン。我が意に従い、闇を霧散せよ!」
魔剣に封じられていた強大な魔力が、煌く青の花弁を開く魔法陣、力のある呪文によって、凄絶な光の白刃の魔法として発動した。