「浄化しないと!」
グラスランドの声に、いいんだよ、とザイードが首を振り、
「わたしの残りの力をすべて、おまえたちにあげよう」
さあおいで、と宙に向かって腕を広げた。
すると、皺(しわ)の目立つ痩せた身体を、ずるり、と天井から落ちてきた濁った色が覆う。
気泡を混ぜ込んだような粘液状の、なにか。
浄化されてなるものか、とそれはザイードをその透けた腹のなかへと、あっというまに丸呑みにする。
悲鳴を飲み込んだグラスランドが、しまった、と杖を握り締め震えた。
黒ではない。それよりもずっと穢れた色に染まり、穢れることを憎悪しながらも歓喜するように、ザイードを呑んだそれは、ぐちゅぐちゅ、と不快な水音を立ててその表面で跳ね上がり、うねった。
「なん、だ」
あれはいったいなんだ、と首をもたげながら綺翠が問うと、
「水霊、だったもの……です」
という答えが返る。
「『だった』?」
「ええ。ひとが生んだ負にまみれた精霊は、浄化されないままだと、自分を穢(けが)すものに対し憎悪を抱くようになり、発生源を排除しようとすることがあります。そうしてさらに自らを穢しながらも負を食らいつづけ、魔力と憎悪とを強化し増加させて、ひとにとって害となるもの、すなわち、悪魔、と呼ばれる存在となるんです」
「……ちなみに。暢気(のんき)に説明なんてしていてもいいのか?」
「いえ、だめですね。でも、残念ながら、ほかにどうしたらいいんだかさっぱりわかりません」
「さっき浄化していれば、よかっただろうに」
「ここまで変質しているとは思わなかったんです。ザイード師が、まさか受け入れてしまうとも……思わなかった」
「読みが甘かった、ということか」
「はい、すみません。へっぽこでごめんなさい」
返答はしっかりとしているものの、ザイードを取り込まれているために手が出せないグラスランドは、ただただ立ち尽くしていた。
そうするあいだにも、もとは僕(しもべ)だった穢れた水霊を受け入れたザイードが、おぞましい毒虫や獣に山と群がられるように蝕まれていく。
「ふざけるなよ、クソが」
冷えきった、低いつぶやき。
果たしてそれは、自分のものであったのだろうか。
目のまえで闇が濃くなっていくさまには、ひどく腹が立った。
怒りを込めて、床の上から彼の名を呼ぶと、穢れた水に取り込まれる魔法使いが笑みを浮かべる。
「狼くん。お願いだよ。殺してくれるね、その……ラティエスで」
魔剣ラティエスで、殺してくれ。
その言葉に、息を飲む気配がした。
そして、熔け崩れた籠のなかから『炎精の蝶』が、なにかを叫ぶ。
声はかすれてしまっていて、なんと叫んだのかは聞き取れない。
だが綺翠の耳には、それが血の滲むような悲鳴に聞こえた。
ぐ、と前足を動かし身体を起こそうとして、激痛に叫ぶ。
それでも無理やり起き上がり、床に転がったままの魔剣を翡翠の双眸で見据えた。
「……ラティエス」
なぜ。
ふと疑問が胸に浮く。
けれど、その疑問を掻き消すように、苦悶のうめき声があたりに響き渡った。
血走った目をおおきく見開いたザイードの枯れ木のような身体が不自然に震え、インク壺に白い紙を落としでもしたかのように闇を吸う。
穢れた闇によって一度分解された体組織が、ひととは程遠いかたちに再構築されていく。
「完全に融合を! 綺翠、下がって!」
なにかが激しくぶつかる音に、こちらへと振り下ろされた闇の爪から、グラスランドの杖に守られたのだと覚った。
黒い氷柱のような刺が鋭く突き出す表皮は、汚らわしい泥が凍ったもののよう。
粘液状の鱗(うろこ)は絶えず、滑り落ちては這い上がり、を繰り返している。
目のまえにいるものは、ザイードでも水霊でもない。
悪魔だ。
けれど、綺翠は動かなかった。
「ラティエス。おまえは、どうする。どう、したい……」
まだ、迷っていた。
答えを、教えて欲しかった。
その時、
「紅蓮宝珠」
顔のすぐそばに、熱を感じた。
はっ、と顔を上げると、螺旋(らせん)を描くように飛ぶいくつもの火球が、悪魔と化したザイードを責めるさまが目に飛び込んでくる。
氷の竜に対してグラスランドが放ったものと、そして『蟻塚』の扉を破壊するために魔剣ラティエスが放ったものとおなじ、炎の魔法。それと同等のものが、たった一節の呪文で放たれたのだ。
「行け、グラスランド!」
ザイードが彼のものではない声で吼え、表皮を焼かれてもだえ苦しむ合間に、『炎精の蝶』を、と綺翠は声を上げ、その声にグラスランドが籠へと渡されている細い橋を渡った。
そして、火球を放ったあとふたたび床に伏して肩で息をする『炎精の蝶』の、その細すぎる身体を支える。
ぱらぱら、と青い呪具の破片を散らす黒髪の下から、白い顔が現れた。
その顔に、
「……え」
え、と綺翠は声をもらす。
その魔法使いの顔が、思いがけないものだったからだ。
魔法使いは、少女の、顔をしていた。
繊細なつくりの、疲れ果て痩せてさえいなければさぞかし可憐であろう、少女のもの。
だが、十年まえにはすでに、カナンリルド王宮『蟻塚』に仕える魔導師たちの長を務めていた魔法使いなのだ、頼りなく細い身体と繊細で儚げなちいさな顔を持っているからといって、その見かけどおりの少女であるはずがない。
どういうことだ、と思うその時、
ふ、と花の香がした。
黒髪が、細い肩を流れる。
白い、氷雪ほどに白い肌が、黒髪の隙間、躑躅(つつじ)色の法服からのぞく。
「……ぁ」
その名が、くちびるから滑り落ちようとした。
しかし、その一瞬手前。
容姿に反し、時を深く重ねた瞳がこちらを見た。
雨に濡れた夜のような漆黒を湛え、恒星のように煌く双眸が、まっすぐにこちらの胸に突き刺さる。
ざわ、と知らず、漆黒の毛並みの下にある肌が粟立つような感覚に襲われた。
弱っているはずの、相手。
だというのに、ただ瞳を向けられただけで自分のなかにあるなにかが、変えられたような気がした。
やはり、少女などではない。
これが、少女であるはずがない。
だがそれならば、と綺翠はその瞳を逸らすことなくまっすぐに見つめ返し、
「どうする」
と短く訊いた。
ザイードの望みを叶えてもいいか。
この魔剣で、彼の命を終わらせてもいいのか。
どうすればいい。
どうしたい。
『炎精の蝶』に、自分自身に、問いかける。
すると、わずか、白い目蓋が漆黒の瞳を覆い、震えた。
そして悲愴を帯びて、色のないちいさなくちびるが動き、
「始末……しないわけには、いかない」
凍えた声音を吐き出すことさえも辛そうである『炎精の蝶』が、かすれた声でそう言って、痩せた白い右手を横に出した。
とたん、
青銀の光が、てのひらからほとばしる。
光は縦に、魔法使いの背丈よりも長く伸びると、先端近くに向かって収縮し、心を熔かす高温の魔力の炎を宿す青石となった。
光を脱いで現れたのは、銀の魔法文字が彫られた黒檀でできた杖。
冠羽を持つ鳥の頭を模(かたど)った彫刻が杖の頂にあり、まるくおおきな宝玉は鳥の瞳として埋め込まれていた。
黒い杖を支えに立ち上がる少女の姿をした魔法使いは、凍えた瞳で魔剣を一瞥(いちべつ)し、その後ザイードだったものを見据える。
とたんに、ふ、と火球の魔法が掻き消えた。
「ヴァンデイン様」
そっと支える腕から離れた『炎精の蝶』を、グラスランドが気遣う。
しかし、その彼の手に握られた、使い込まれて光沢の出た桃花心木材の杖に、さっと上から下まで視線を走らせた『炎精の蝶』は、
「手伝って、くれるか」
強い意志を込めた言葉を、ちいさなくちびるに乗せた。