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しん、と白い空間を、沈黙が支配する。
しばらくは、誰もなにも発しなかった。
だが、それがしばらくつづくと、やがてふたりの魔法使いが落ち着きなく瞳をさまよわせはじめる。
「え。ええと。あの……綺翠、あの……嘘をついた、ってことですよね、それって……?」
「ああ。そうだが?」
「あぁ……そう、なんですか……わぁ……嘘つきだぁ。ええと、それで、その……ちなみにどのへんが嘘ですか?」
「『炎精の蝶』を殺す、とか、おまえを殺す、とか。そんな気は毛ほどもないが」
「わぁ……そうなんだぁ。あぁ、びっくりしたぁ……本気かと思っちゃった……ええと、それで、あ、あの……ところで、ですね……あの、さっき僕、あの方のなまえをね、聞いたような気がするんですけどね……でも、あの、なにも、起こってない……ような気がするのは、僕だけでしょうか」
グラスランドが胸に杖を引き寄せつつ頬を引きつらせると、氷の上に身体を投げ出したままだったザイードがゆっくりと上半身を起こし、
「……なぜ、なにも起こらない。わたしは……口にしてしまったというのに」
呆然とつぶやく。そして、おのれで作り上げた氷の冷たさなのかそうでないのか、ぶるり、と身を震わせた。
「まさ、か」
まさか。
遅かったというのだろうか。
ふ、とそんな思いが、その場にいる誰の胸にも過ぎる。
綺翠は耳を欹(そばだ)て気配を探るが、魔法使いふたりが静かに慌てる音しか聞こえてはこない。
なまえを封じた魔法使いが、封じたなまえを口にする。
それは、封じを解くこと。
『炎精の蝶』が失っていた力を取り戻すことだ。
だが、なにも起こらない。
埃積もる廊下に落ちた、あれだけの、魔石。
魔石は、魔法の蝶が冷えて凝固したもの。
魔力は、心のかけら。
魂の、一部。
「……ヴァンデイン様」
泣き出しそうに、祈るように、グラスランドがその名を呼ぶ。
そうでなくとも、十年だ。十年も、氷に囚われてきたのだ。
そのうえで、溢れ出した魔力の奔流を止めるため、決して小規模ではない魔法を発動している。
冷たい予感に、漆黒の毛並みが震え、全身が震えた。
じくり、と足の痛みが脳髄を焼き、身体が揺れる。
「だめ、だったのか……?」
目のまえと意識とを覆い尽くそうとする熱い白のなか、思わずそう口にした、そのときだ。
ゴオォォ……ッ
どこか遠くに、唸りを聞いた。
直後、巨大な滝のただなかにいるのではないかと思わず身をすくめるほどの轟音に、『蟻塚』が揺れる。
あ、と揃ってふらつく三人の足もと、そして頭上を覆っていた分厚い氷が、どろり、と融けて水となり宙で渦を巻いた。
そのさまに、
「……あ……ぁ……キリィ……」
ザイードが、ほっ、と安堵の息を吐き出し、ふら、と床に座り込む。
「ああ……ほら、ごらん。水霊が、わたしの水霊たちが、怯えている」
真夜中の青色をした法服の広がる袖から枯れ枝のような腕を伸ばし、ザイードはどんどん膨れ上がりおおきく渦巻く、おのれの僕(しもべ)だったものを仰いだ。
意思を持つかのようにうねる水流は、まるで蛇のように、出口を探して広間を駆け回る。
激しい飛沫に、濡れそぼつ。
「水霊を、ここから出さなくては。綺翠。まだ耐えられそうですか」
「俺のことはいい。それより、どういうことだ」
頭から痛みを追い払うついでとばかりに、身体を重く濡らす水を弱々しくはあるもののなんとか振り飛ばしつつ、どういうことだ、と問うと、グラスランドではなくザイードが答えた。
「ここはわたしの魔法によって、空間が歪められているんだよ。『蟻塚』であって、『蟻塚』ではない場所。だから、水霊たちも逃げられない。このままでは……水霊たちは、わたしたちを襲ってくるだろうね」
「律からこぼれし空間」
ザイードの笑み声をかき消すように、凛とした声音が響き渡った。
綺翠が音源を振り返ると、濡れた床をしっかりと踏みしめたグラスランドが杖を高く掲げている。
「相対する、振り返らず飛び去る翼と、歌声響く無限の体内」
激しくうねった巨大な水の蛇が、黒と白に強く輝いた魔法陣に向かうのを見た綺翠は、とっさにグラスランドのまえへと飛び出した。
脇腹に、衝撃。
息が、詰まった。
しかし、弾き飛ばされるその瞬間、宙でなんとか身体を捻り、呪文詠唱中のグラスランドに衝突することは避ける。
ドッ、と再度壁に叩きつけられて、身体のなかでなにかが砕ける音を感じた。
息を取り戻せないまま、襤褸のように床へと落ちる。
どこが痛んで、なにが動かないのかは、もうわからなかった。
ただ、ぼんやりと開いた目に、カツン、と床に杖の石突を突き立てるグラスランドの姿が映る。
「存在は律に従わなくてはならない。時空の律のもと、歪みは折れることなく正しく返れ」
あぁ、とその空間を支配する朗々たる声音を聞きながら、濃い血の味がする口のなかでつぶやいた。
グラスランドは、無事。
「綺翠!」
グラスランドの泣き声にわずかの間手放していた意識を取り戻すと、歪められた空間がもとに戻ったのか、それともまた別の空間であるのか、あたりは炎に取り巻かれていた。
「……今度は、火責め、か……?」
嗤おうとして、息が詰まる。
肋骨が折れているようだ。
身体を起こせずにいると、かたわらに膝をついたグラスランドが、袖の破られた腕を伸ばして支えようとする。視線だけを動かして見ると、右足に緑色が巻きつけられているのが見えた。失われている、グラスランドの法服の袖だろう。
「……『炎精、の蝶』は……?」
「思いのほか、元気そうだ」
こちらに背を向けるザイードが、少々強張ったような声音で答えた。
その、視線の先。
急激な熱を加えられて砕けた球体が、意志ある炎を映して輝く破片を降らせている。
四方の壁と天井、そして床に描かれた無数の魔法文字が、炎に舐められ黒く焦げて、散った。
魔術の鎖と鉄格子は熔け崩れ、異臭を放つ。
そして、
烈火に包まれ、細い人影が現れた。
「……キリィ」
熱された床に両手をつき、ゆら、と身体を起こそうとするその人影に向かって、ザイードが切なげにその名を呼ぶ。
炎は、床に流れる長い黒髪とその下に隠された肌、躑躅(つつじ)色の法服を決して焼くことはせず、ただそのひとを彩る飾りのように、やさしく愛撫するように、まとわりついている。
キリィ、と呼ばれた魔法使いが、どろり、と熔ける籠のなか、黒髪の影で凍えた声を吐き出し震えるらしい。
ふ、と燃え盛っていた紅蓮の炎が、息を吹きかけられた蝋燭の炎のように消えた。
「呼ばないように注意していたつもりだったのに、狼くんの言葉にうっかり頭に血を上らせ……思わず、声に乗せてしまったよ。あなたの、なまえを」
『炎精の蝶』が氷のように白く細い手指を震えながら伸ばし、熔け残った鉄格子を握る。
「自由にしてあげるよ、キリィ。もう、終わりにする。ほら、ごらん。彼らも戻ってきた」
その言葉に、押し寄せるような気配に気付いた。
纏う漆黒が、逆立つ。
体内の水が、激しく波打つようだ。
はっ、と頭上を振り仰いだグラスランドが杖をくるりとまわそうとする。
だが、
「手をださないでもらえるか」
枯れ枝のような手と、そして振り返って見せる静かな微笑で、ザイードは止めた。