「だが、あんたは失敗した」
 綺翠は目眩をこらえ、刃を突き立てるほどに強く見据えて言った。
「……『炎精の蝶』はあんたのものには、ならなかった。その瞳があんただけを見ることなんて、なかった」
 ぴくり、とザイードの白が混じった眉が片方、跳ね上がる。だが、なにも言わない。
「そして、魔力の蝶を、『蟻塚』の外に、飛ばしつづけた」
 いくつも、いくつも。
 魂の欠片である魔力の蝶を、飛ばした。
 氷の冷たさに打ち落とされて、埃にまみれても。
「知っている」
 そう言って、ザイードはくちびるを歪めた。
 あれだけの魔石がいたるところに散らばっているのだ、いやでもそれは知れる、と。
「そう。あのひとは、わたしへの恨みに縋らなかった。脆いくせに、強いひとだ」
 苦笑をもらしたザイードは、皺(しわ)に覆われた手を法服の懐へと入れた。そして金色の懐中時計を取り出す。
 
 クルッピー。
 
 時計からは勢いよく緑色の小鳥が飛び出し、声高く啼(な)いた。
「いけない。お喋りがすぎてしまった。予定より、ひと啼き分の時間の浪費だ。それにこれ以上、風の魔法使いくんに時間を与えてしまっては、わたしがきみを殺すかきみがわたしを殺すまえに、彼が『炎精の蝶』を見つけ出してしまう」
 にこやかに杖を構えなおしたザイードの言葉に、え、とさきほどからずっと沈黙していたグラスランドへと視線をやる。
 グラスランドは、くちびるを引き結び悔しげな顔をしていた。
 その頭上には、向こうが透けて見える鳥が数羽、飛び交っている。
 どうやら密やかに、この魔法で編まれた氷の箱のほころびを探っていたようだ。
「さあ、狼くん。決まったかな。わたしの胸をラティエスで貫くか、貫かずにきみたちが死に『炎精の蝶』をも失うか」
 ざ、と真夜中の青色の法服が突然起こった風に、鳴る。
 氷片を巻き上げるその激しい風のなかに、傷つけられた頬から血の珠を散らしつつ、ザイードが微笑んだ。
「風の魔法使いくんは、決めたようだよ?」
「ええ。決めましたよ、僕は」
 飛び交っていた魔法の鳥たちが、冷えた声音を吐き出したグラスランドのまわりに集う。そして集った鳥たちはひとつに溶け合い、新たな魔法陣となる。
「僕は……あなたを殺しません。でも、僕が死ぬつもりも、綺翠を死なせるつもりもありません。あなたを拘束します。そのうえで、この部屋の魔法を壊し、あの方を見つけます。そして、冬の籠を壊したあと、あなたに問うまでもなく、僕があの方の真名を見つけ出してみせます」
「たいした自信だね」
「ええ。若いので」
 にっこり、とグラスランドはなんとも晴れやかに笑ってみせた。
 だがそれに、ザイードは首を振る。
「見つけられないよ」
「見つけます」
「無理だね」
「僕は、やるときはやるんです」
 どこか余裕のようなものを見せるそのグラスランドの口振りに、ザイードはむきになって更に言い返そうとした。しかし、
 ざり、とそのとき、赤い色の氷が鳴る。
「そう。やるときは、やるんだ」
 はっ、と見開かれたザイードの双眸。
 そこに、闇色の毛皮を纏った魔狼の姿が映る。
 それを綺翠は、間近に見た。
 氷に閉ざされた空間に響く、激しい獣の唸り声。
 あ、と短く悲鳴を上げた魔法使いの手から長い杖が離れて、氷の上を滑った。
「手加減ができなくて、悪いな」
 右腕に噛み付き引き倒した魔法使いの心臓の上に、ぐ、と前足を乗せ、綺翠は低く言う。
 ふたり分の血の匂いが交じり合って、鼻につく。
 右足の痛みが、脳を焼いてしまいそうだった。
 その匂いと痛みとを追い払うために首を振ろうとして、しかし、やめる。
 かわりに、氷の上に倒された瞬間、自分の身体の下に風の魔法陣が移動したことを知り眉を寄せたザイードの、その瞳に映る闇色の獣の姿をまっすぐに見据えた。
 自我を、保てよ。
 血の匂いと痛みに、我を忘れるな。
 そう目のまえにある獣の姿に向かって、言い聞かせる。
 そのうえで、
「……殺すぞ」
 唸るように、脅す。
 それを聞いたザイードは、腕から血を流したまま、綺翠を胸の上に乗せたまま、微笑んだ。
「きみも、やっと決めたようだね」
 しかし、ゆるり、と綺翠は首を振る。
「あんたの望みとは、違うだろうがな」
 グラスランドの詠唱を背に聞きながら、気を抜けば震えそうな牙のすきまから、声を吐き出した。
 どういうことだ、とザイードが笑みを消す。
「俺が殺すといっているのは、『炎精の蝶』だ」
 冷酷な声音で教えてやると、はっ、とザイードは瞠目し、息を飲んだ。
「そいつが、そもそもの元凶だろう。だったら俺は、蝶を食い殺す。それに。蝶も、それを望んでいるかも知れない。今後も、おなじことが繰り返されないとも限らないからな。それなら、殺してやったほうが、いい。蝶に特別な思いを抱いていない俺なら、グラスランドが真名を見つけ出すまえに、喉を食い千切ってやれる」
 そうすれば、カナンリルド王宮『蟻塚』を氷の闇に閉ざす意味はなくなる。
 多くの人間が、それで救われる。
 おのれが放つ炎に焼かれる人間を見て、『炎精の蝶』が苦しむことも、なくなる。
「ラティエスを使うまでもない。牙と爪とがあれば、弱った蝶など容易く殺せる」
「……綺翠? なにを、言ってるんですか」
 ふ、と呪文の詠唱をとちゅうで放棄して、グラスランドが震え声で言った。
「グラスランド。悪いな。だが、俺を選んだおまえが、悪い」
「そんなことしたら、僕、綺翠を……っ」
「やれるものなら、やれ。やるときはやるんだろう? 俺もそうだ。俺はまだ、死ねない。約束が、ある。たぶん、その約束を果たすことが、これまで俺が死ねなかった理由。生かされた、理由。だから、グラスランド。おまえが俺を殺すというのなら、そのまえに俺はおまえも殺す」
「そ……そん、な……」
 グラスランドが力なく膝から崩れる気配。それを感じながら、す、と綺翠は翡翠の双眸を細め、
「どう思う。ザイード・アルノー」
 言葉を失っているザイードへと、言葉を落とす。
「……よ、せ……やめてくれ……」
「あんたなら、そう言うと思った。どうせ殺すなら、あんたは自分の手で殺したいはずだからな。だが俺は『悪い魔法使い』の気持ちなど、どうでもいい。獣(けだもの)、だからな」
「やめ、ろ」
「なんなら、髪のひと房くらいはあんたに分けてやってもいい。それとも、ほかに欲しい部分があるか。瞳か? くちびる? それとも手指?」
「……な、なんということを……キリィは、世界の至宝だぞ!」
「はっ。誰が至宝。笑わせるな。城を落とし国を傾ける、人の心を惑わすただの淫乱な悪魔だろうが」
「な……っ」
「そんな悪魔が殺されたところで、誰が悲しむ。皆が手を叩いて喜ぶだけだろうよ!」
「き、きさま……っ! キリィ・ヴァンデインを愚弄(ぐろう)するか! キリィを、あの比類なき至高の炎を汚れた足で踏み躙るなど、そんなことは許さないっ!」
 低い絶叫が、広い空間に鐘のように響き渡った。
 わなわなとくちびるを震わせ、目を吊り上げるザイードが、はじめて炎のような怒りを見せたのだ。
 そして、
「……え」
 やがて静寂を取り戻した空間のなか、グラスランドが間の抜けた声を吐く。
 その声音に、なに、と今度は怒りを吐き出したザイード自身が、わけもわからず瞳をさまよわせる。
 綺翠は、そっとその上からゆっくりと足を庇いつつ後ずさるようにして下りて、
「ザイード。ついでに、グラスランド。ひとつ、思い出させてやる」
 牙の隙間から白い息を、長く吐き出す。そして、
「おまえたち魔法使いは、呪文を唱えるくちびるが汚れるから嘘はつかないらしいが。俺は……魔法使いじゃない」
 はた、と尾をひと振りして、言った。
 
 
 
 
 
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