吐き出す白い息が、目のまえを覆う。
 自身が流す血の匂いが、鼻をついた。
 ゆる、と綺翠は首を振って、
「……俺は……相手を知らず命を奪い合うのは、もう……たくさんだ」
 奪わなくてもいいはずのものを奪って、失くさなくてもよかったはずのものを失くした。
 けれど、なにを奪いなにを失くしてしまったのか、わからない。
 なんのために戦い、血を流したのか、わからなくなってしまった。
 獣でも、まともな理由があるだろうに。
 だから、そんな思いはもう、たくさん。
「たぶん、あんたとわかりあうことなど……できないのだろう。だが、なにも知らないよりは……」
「そうか。まあ、それもそうだろうね」
 ふ、とザイードが溜息を吐いた。そのすぐあとに、衣擦れのかすかな音を聞く。直後、
 つい、となにもない空間から、まずは靴先が現れた。
 靴先のつぎは、真夜中の青色をした法服の裾、杖。徐々に姿を現す魔法使いのその足もとでは、浅葱の魔法陣が氷の上で滲んで溶け消える。
 そして、とうとうザイード・アルノーは、その姿をあらわにした。
 けれど綺翠は、思わず瞠目する。
 冬の夜空をそのまま切り取ったような法服が包んでいたのは、枯れ枝のような艶のない身体だった。多少かすれてはいたものの、まだ張りのあった声の印象とは、まるで違う。
 現れた魔法使いは、やさしげな風貌の青年、ではなく、老人だった。
 とはいえ、背は曲がらずにすっきりと伸ばされている。
 確かに見たところ枯れたようすはあるのだが、しかし、歳を重ねて滲み出る深みがまだ不足しているようにも見えた。
 纏う雰囲気が、どこか老人のそれとは違うよう。
 なにかが、おかしい。
 なにが、とまでは特定できない。
 けれど、皺(しわ)に覆われたその姿に、綺翠は違和を感じた。
 すると、ザイードはこちらの戸惑いを覚ったのだろう、ふ、と微苦笑して、
「風の魔法使いくん。きみには、この……わたしの状態が、どういうことなのか、わかるね?」
 まるで教師が生徒にするように問われたグラスランドは、ゆっくりと瞳を伏せてうなずく。
「おのれの能力以上の魔法を行なった代償、ですね」
「そのとおり」
 微笑まれて、悲しげに表情を曇らせるグラスランドが無言で首を振った。
「わたしは、魔法使いとして格上である『炎精の蝶』の身を捕らえるために、その名を封印した。けれど最高位の魔法使いの名は、やはり強力でね。その上、蝶を閉じ込める冬の籠のためにも、水霊を集めなくてはならなかった。わたしはこれでもまだ、四十年も生きてはいないんだよ。身のほどをわきまえずに行なった大それた魔法の代価として、わたしは体力と生命力を支払い……いや、いまも、支払いつづけている」
「なぜ……そこまでして……?」
「言ったろう。『炎精の蝶』は世界の宝。誰がなんと言おうが、ね。わたしがそのように言う理由が、わからなくてもいい。わたしだけが知っていればいいことだ。けれど、それは間違いない。あのひとが……望むことではないけれどね」
 そっと。ザイードは杖を握る皺に包まれた右手を、左手でさする。
 そして、その手の感触を嗤うように、くちびるをゆがめ、
「わたしには、癒せなかった」
 虚ろに響く言葉を、こぼした。
「せめて、あのひとが生み出す炎があのひと自身を焼き滅ぼしてしまわないよう、閉じ込めることしか、できなかった」
「な、に」
「わたしは、炎に愛された蝶を、癒すことも手に入れることも……できなかった」
 癒すこともできず、手に入れることもできなかった。
 そう言って、ザイード・アルノーは皺に包まれて色の知れない瞳で、どこか遠くを見つめる。
「炎は痛みなのだ、とあのひとはそう言って、哀しげに笑っていた」
「……痛、み」
「そう、痛み。炎が強ければ強いほど、それに触れることで生じる痛みも強くなる。『炎精の蝶』の魔力は、青銀。高温の炎だ。あのひとは、常に強い痛みに苛まれていた。けれど美しい炎は、誰も放ってはおかないものだろう? 羽虫のように、あのひとのまわりには人が集まったよ。賛美し敬愛するものだけではなく、好奇や妬みをもつものも、ね。そして、あのひとがなにをするでもなく、どちらの羽虫も炎に触れ、つぎつぎと痛みに耐えきれずに焼き崩れていった。わたしも、そのたくさんいる羽虫の一匹。なあ、狼くん。きみも、惹かれはしなかったか」
 『炎精の蝶』が放つ炎に、惹かれなかったか。
 そう問われて、くら、と目眩に襲われた。
 倒れるなよ、と楽な姿勢を求めようとするおのれの身体を叱咤するが、その足もとで赤い色のやわらかな氷片がかすかに鳴る。
 血が、凍りはじめていた。
 目眩のなか、ちら、とそれを見やりつつ、
「……さあ」
 溜息のように、言った。
「そうかも知れないし……そうではないかも、知れない」
「曖昧だね」
「会ったことも、ないからな」
 炎の色がどうだとか、魔力の強弱だとか。
 そんなこと、自分にはわからない。
 『炎精の蝶』でなくとも、グラスランドもそしてザイード・アルノーも。まったく別の生き物のようだ、とは思わないにしても、魔法になどこれまで関わってこなかった自分にとってはじゅうぶんすぎるほど、不可解。
 神秘の力を使うといって、それだけで怯えることもないが、だからといってすぐに信頼できるわけではない。
 それは、誰に対してもおなじこと。
 だが、では惹かれてはいないのか、と問われたなら、すぐにうなずくことができない自分がいることも、確か。
 風に背を押されはしたが、しかし、惹かれていないのなら、果たしてここまでやって来ただろうか。
 魔力がどうだとかは、知れない。
 けれど、匂いがしたのだ。
 涙と、花の、匂いが。
「だが俺は、たとえ『炎精の蝶』に惹かれたのだとしても、内戦を起こし、『蟻塚』を氷付けになどしない」
「さあ。それはどうだろうね。きみも言ったろう。きみはまだ『炎精の蝶』に会っていない。あのひとに会ったそのあとも、おなじことが言えるかな」
「そんな、こと」
 ぐらぐら、と世界が揺れる。
 曖昧な輪郭と感覚のなか聞こえるのは、わたしを焼け、というあの虚ろな声。
 それはおそらく、蝶の声。
 けれどなぜ声が聞こえるのかは、やはり知れない。
 それさえわからないというのに、揺れる。
「はじめは腹が立つかも知れない。あのひとはとても、苛烈だから。特に、自分に対しては、ね。だからこそ、わたしはあのひとを捕らえた。焼き崩れる羽虫を見て、顔色ひとつ変えずに苦しむあのひとだからこそ、裏切りと計略に満ちたこの『蟻塚』ごと氷に閉じ込めた。そうすることで、あのひとに憎まれても。それでも、あのひとの瞳がわたしだけを見てくれるのなら、と」
 
 
 
 
 
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