「呼ばれて答えよ。風の障壁!」
とっさに綺翠の上に張られた風の壁に、無数の氷の刃が突き刺さる。
くっ、と息を飲んでそれに耐えるグラスランド。その彼を、
「おや。魔力が上がったね、風の魔法使いくん」
姿なき魔法使いが称えた。
「発動も速くなった。でも」
でも、とつづけるその声音とともに、ずっ、と氷の刃は深く壁のなかへと押し込まれる。
「まだ、甘い」
「っ……き、綺翠、逃げてっ!」
耐えられない、とグラスランドが悲鳴を上げた。だが、
「いい。グラスランド。壁を解け」
まっすぐに氷の刃を睨みながら、言う。
痛みよ。いっそのこと、わたしを焼き滅ぼせよ。
胸のうちで、その言葉をつぶやきながら。
足を覆う痛みが、これから襲う痛みが、この身を焼き滅ぼすというのなら。
それも、いい。
そうすれば、誰かに痛みを与えることはなくなる。
けれど、
『その痛みは、癒せないの?』
まだ幼い声で、言った。
その言葉を。
もしも癒せるならば、とそこにだけ咲く青い花を、差し出した。
心に染(し)みるほど、美しい青。
甘い、香り。
それを、真白い手が、受け取っていた。
「ラティエス!」
もうすこしだけ、待ってくれ。
まだ、あの『約束』を果たしていない。
だから、もうすこしだけ。
力を。
こちらの痛みを吸い上げるように、魔剣の刃に炎が踊った。
かわって、がくり、と力尽きて両膝をつくグラスランド。
溶けるように壁が壊れて、無数の氷の刃が押し寄せた。
そして、高温の青銀。
それが、ゴウッ、と剣先から噴き上がり、なにもないはずの場所を舐める。
ふ、とどこかで笑みがこぼれる気配を感じた。
※
ふ、と姿なき魔法使いが、笑みをこぼす。
炎の、向こう側で。
「……ラティエス。とうとうこの心臓を、貫きにきたね。クラウディス王は、なかなか手放そうとはしなかったようだけれど」
その言葉に、綺翠は瞠目した。
とうとう心臓を貫きに。
それは、どういう意味。
その言葉が意味するものは、いったいなんだ。
「あんたは、いったい……」
高温の炎で一瞬にして気体へと変えられた氷の刃。そのなごりに闇色の毛並みを撫でられつつ、何者なのだ、綺翠は喉に息を飲む。
「ザイード・アルノー」
それがなまえだ、と溜息のように、姿なき魔法使いが言った。
「ザイード・アルノー? どこかで……」
どこかで聞いた、なまえ。
いったいどこで聞いた名だ、と考えをめぐらそうとするところに、氷の床に膝をついていたグラスランドが、
「魔剣ラティエスをつくり、カナンリルドへと赴く者に渡すようクラウディス王に託した、魔法使い」
震え声を、吐き出した。
「な……っ」
「魔剣ラティエス。傑作でしょう?」
言われて、ちら、と魔剣の柄飾りである宝玉に目をやる。
ラティエスのおおきなひとつの瞳は、青く澄んで魂を魅了し、誘(いざな)う。
だが、その魔力は、いったい誰のもの。
「……ぁ……だと、したら……」
引きつる喉から、無理に声を出した。
ここには持ってきてはならないものであったのか。
ラティエスの、カナンリルドへと向かう理由とは、主より預かっていたその魔力を返すことだったというのか。
いや、しかし。
「もちろん、心臓を刃で貫かれたなら、わたしは死んでしまうよ」
ザイード・アルノーだと名乗った魔法使いは、戸惑うこちらの心のうちを見透かしたように、そっと微笑んだ。そして、穏やかで静かな声音で、
「けれど、もう終わらせなくてはならない」
彼が纏うのは嘲笑ではなく、悲しみを孕んだ微笑。
「あんたはいったい……なにが、したい」
傷付いた足が冷えて、目眩がした。
「なにがしたい、か。ただ……そう。ただ、崇拝しているだけだよ」
ふと、見えたわけでもないのに、その笑みに歪みを見たような気がする。
しばらく、言葉が出なかった。
ただ、ぐらり、と傾(かし)ぐ世界のなか、わけの知れない怒りを覚える。
「……崇拝、だと」
ふざけるなよ、と声を吐くと、より濃く赤い色が滴った。
「意味が、わからない」
綺翠はラティエスの炎が舐めたあたりを、きつく睨む。だが、見えない相手をその瞳に捕らえられるほどの力が、得られない。
「わかってもらえるなどとは、はじめから思ってはいないよ。それに、わかってもらいたいとも、思っていない」
「あの方は……『炎精の蝶』は、どこですか」
ざり、と足もとに散らばる氷片を踏みつつ立ち上がったグラスランドが、常にないほど低い声音で唸った。その疲労濃い青い顔には、戸惑いと焦りと、そして怒りとも悲しみともつかない表情が浮かんでいる。
そして、桃花心木材の杖を両の指が白くなるほどに握り締め、こちらを見てしまわぬよう、必死でなにもない宙に瞳を向け、
「ザイード・アルノー師。あなたが、あの方の真名を封じたのなら、いますぐに解放してください。もう、やめてください」
「そうだね。はやくしなくては、狼くんも、そして……わたしが冬の籠に閉じ込めた『炎精の蝶』も、死んでしまうかも知れないね。でも、わたしはやめられない。どれほどに、頼まれてもね。さあ、どうする。わたしはとても矛盾しているから、きみが決めてくれ」
「……え」
決めてくれ、と思わぬことを乞われて、グラスランドがかすれた声を震えるくちびるからこぼした。
「わたしは、そう。『炎精の蝶』を愛している。世界のすべてを敵にまわしても良いと思うほどに。そのためにたくさんのものを捨ててきた。ほんとうに、たくさんのものを。けれど、後悔などはかけらほどもしていない。だから……このままだと、確実に世界の宝は失われてしまうよ。蝶はもう、さんざんに抵抗して、ぼろぼろだ。はやく出してあげないと、死んでしまう」
「つまりあなたは……自分を殺させるために、魔剣ラティエスを? ほかに、なんの意図もなく……?」
「そうだよ。ほかに理由などありはしない。わたしは『炎精の蝶』の命が失われることは、世界にとってとてつもない損害だと思っている。けれど、苦労して捕らえた蝶を手放してしまうのも、惜しい。とはいえ……籠のなかに捕らえても、ほんとうの意味でわたしのものになりはしないのなら、殺してしまいたい、とも思っている」
決めてくれ、といいながらも、終わらせることを望んでいる。
終わらせたい、と思いながらも、手放すのは惜しい。
手放したくはない、と隠しながらも、失いたくはないと誘う。
失いたくはない、と怯えながら、殺してしまいたいと微笑む。
それは、純粋な矛盾だ。
「ぼ……僕は……」
わからない、とグラスランドがうつむきかけるところへと、
「グラスランド」
綺翠は呼びかけた。
けれど、そうしておきながらも、そのあとの言葉がつづかない。
迷うところなのか。いや、違うだろう。
ザイード・アルノーはただ、『炎精の蝶』を捕らえる、そのためだけに、カナンリルドどころか西の大陸をも混乱の淵に叩き込んでいるのだ。多くの命も、失われたはずだ。
いま、なにをすべきか。そんなこと、わかりきっているだろう。
しかし、
「いいだろう。風の魔法使いくんが決められないというのなら、狼くんに決めてもらおうか。きみならば、簡単だろう」
戦を経験してきたきみならば。
そういわれて、ぐ、と胸がおかしな音を立てるようだ。そして、
「……そう、でもない」
乾いた口、かすかに震える牙のすきまから、こぼす。
「おや」
「俺には……まだ、あんたが……見えていない」