目のまえにあったはずの牢獄は消え去り、かわりに一面が白い氷に覆われただけの広間が現れた。
 くっ、と息の飲むところへ、さきほどの声が響く。
「ようこそ、『蟻塚』へ」
 掠れてはいるものの、穏やかな声音。
 だが、声はすれども、白い箱のような広間のなかには自分とグラスランドの姿しかない。視覚と聴覚、その神経を張り巡らせて気配を探るものの、見つけられない。
「どこに、いる。誰だ」
 ラティエスを咥えた牙の隙間から、唸るように問うた。すると、
「そうだね。誰か、と問われたなら……こう答えようか。宮殿『蟻塚』を氷に閉ざしてカナンリルドを混乱の淵に叩き込み、そして……青銀の力を持つ最高位の魔法使い『炎精の蝶』の命をこの手に握る、悪い魔法使い」
 見えなくとも、わかった。
 姿の見えない相手は微笑んでいる、と。
 そのやさしげな雰囲気に流されたのか、グラスランドが首を傾げて言う。
「悪い魔法使い、って自分で言っちゃいましたね」
「へっぽこ魔法使いだ、と自分で言うやつもいるが、それも珍しいな」
 ぴしゃり、と綺翠が言うと、グラスランドが口をひんまげる。それに、悪い魔法使い、と名乗った相手が笑みをこぼすらしい。
「仲が良いね」
「仲良くなどあるものか。このへっぽこ魔法使いのせいで、散々な目に合っている」
「あはは、すみません」
「和むな」
「す、すみません」
「そうか。では、早々に終わらせてしまわないといけないね。はじめようか」
 はじめよう、とやわらかな声音が言うと同時に、ざわ、と綺翠を覆う漆黒の毛が逆立った。
 そしてどこからともなく押し寄せるのが、氷の礫(つぶて)を含む風。
「く……っ」
 視界がふさがれ、氷の破片に傷つけられる。
 しかし、しばらく耐えるとその風はやんだ。とはいえ、それで攻撃が終わるはずもない。
 綺翠は、カキン、とどこかで氷が割れるような音を、ひとよりもずっと敏感な耳に聞く。
「退がれっ!」
 綺翠の声にとっさに後退するグラスランドの、足もと。そこに、ゆら、となにかの影が過ぎった。直後、
「う、わっ!」
 滑らかな氷の床に亀裂が走り、驚いたグラスランドの足が滑って宙に浮く。
「グラスランド!」
 しりもちをつくその目のまえで、氷の床の一部が亀裂の入ったところから盛り上がった。
 盛り上がって、内側から新たな氷が湧き上がる。
 細かく氷が割れるような音とともに、しかし、それは名工が氷の彫像を作り上げる工程を短時間でみせるよう徐々に形を成していった。
 やがて、息を飲むふたりのまえに、冷たく透きとおった美しい竜が現れる。
「立て、グラスランド」
 ふうっ、と巨大な竜が真白い息を吐くのを見て、綺翠は前へと出た。
 す、と姿勢を低くして身構えると、白い世界にただひとつだけ落ちた影のようなこちらの姿を、竜は表情のかけらもない双眸で見下ろす。
 そして、
 静かに睨み合う両者のあいだに、姿なき魔法使いの朗々たる歌が響いた。
 ついで、グラスランドが呪文の詠唱をはじめるが、先に竜が、ぐぐ、とその重たげな首を擡(もた)げる。
 剣のような巨大な牙が並ぶ口から勢いよく吐き出されるのは、氷片の混じった冷水だ。
 最初の攻撃は難なく跳んで避けた綺翠だったが、もといた場所に目を向け、胸のうちに舌打ちを落とす。
 吐きかけられた冷水が、そのまま鋭く尖った塊となって斜めに床へ突き刺さっていたのだ。
 さらに、休む間もなく、刃が無数に突き出た尾が鱗を散らしながら振り下ろされる。
 床を打ち砕くその一撃を辛うじて避けたものの、しかし避けた先の床が不意に盛り上がったため、綺翠は宙に放り出された。
 その身体の真下には、鋭く光る氷の柱。
 このままでは、串刺しになる。
 そう思うところへ、また冷水を吐きかけられた。
「我は起こす、偉大なる風の塔!」
 グラスランドの声だ。
 直後、凄まじい勢いで渦を巻く風が、氷の竜が吐き出した冷水をわきから襲った。
 冷水は風によって狙いを逸らされ、あるいは内側に巻きこまれ、そのまま宙で凍りつく。
 ぐ、と綺翠は身を捩り、宙にできた氷の螺旋に落ちて串刺しを免れた。さらに、すぐさまそれを蹴りその反動で跳躍して、竜の背へ。
 そして、降り立つその勢いのまま、首の根にラティエスを突き立てる。
 だが、ひとの手によって握ったものではなく横に咥えた剣であるために、刃が深く入ってはいかない。
 ぶるり、とたった一度首を振られただけで、綺翠は跳ね飛ばされ、壁に叩きつけられた。
 その上、ずる、と壁から床へと落ちたところに冷水を吐きつけられ、除けそこなって右後足に浴びてしまう。
 ガラン、と音を立ててラティエスが落ちた。
 射るように見据(す)える、氷の瞳。
 それを睨(にら)み据えようとするが、冷たさよりも痛みが、腿(もも)まで這(は)い上がってくる。
「……う」
 立ち上がろうとしてできず、その場に伏してしまった。
 筋肉が震え、骨に響く。
 身動きがとれないのはおそらく、冷水を浴びた足が床の氷に捕らわれてしまったからだろう。
「綺翠っ!」
 再度、紡ぎ上げるとちゅうの呪文を途切れさせて叫んだグラスランドに、つづけろよ、と内心で苦笑を落とした。
 グラスランドの足もとには、見覚えのある複雑な模様で構成された、赤い魔法陣。
 おそらくは、水霊が集中するこの場ではその発動も困難であるはずの、炎の魔法だ。
 ほかに気をとられてどうする。
 だが、グラスランドはいまにも魔法陣を放り出し、こちらへと駆け寄ろうとしていた。
「来るな、グラスランド!」
 綺翠は、氷に爪を立てた。そして、渾身の力を込め、
 
 バリ……ッ。
 
「っあぁ!」
 悲鳴を上げるグラスランドの目に、あっというまに涙が溢れた。だが、
「泣くな、さっさと歌え!」
「……ぅ……ふぇっ」
 白い氷の上に、漆黒と真紅とが、散っている。
 それでも、竜が振り上げる尾を止めるはずもない。
「グラスランドっ!」
「……っ……我は放たん、炎の宝玉!」
 
『痛みよ』
 
 魔法陣の赤い魔法文字が宙に浮き、そのひとつひとつが紅蓮に輝く炎の珠となって、氷の竜に襲い掛かる。
 その甲高い悲鳴を聞く耳に、ふ、とまた別の声を聞いた。
 え、と瞠目し声の主を探す。
「……誰、だ」
 
『痛みよ。わたしを焼け』
 
 虚ろな、声。
 いまにも消えてしまいそうな。
「ラティエスなのか。それとも……」
 熱い滴(したた)りを溢れさせる足を引き摺り、すぐに冷えゆく赤い線を描きながら、白く曇る魔剣へと寄った。
 
『いっそのこと、わたしを焼き滅ぼせよ』
 
「……痛みに、愛された……」
 つぶやいたとたん、ふ、とそれまで聞こえていたひとつの音が消える。
 歌が、止んだのだ。
 はっ、と顔を上げると、炎を浴びて暴れ狂っていた竜も動きを止めている。
 そこを一気に、炎が攻め立てた。
 巨大な竜をひと飲みにして、さらにそれが融けて水になってさえもその存在を許さず水蒸気へと変えてしまう。
 いったいなんだ、とラティエスを拾い上げるところに、あぁ、という姿なき魔法使いの溜息が聞こえた。
「あぁ、もったいないね。美しい竜だったのに」
 疲れの滲む男の声にはなぜか、悲哀のようなものも感じられる。
 だが、その正体がなんであるのか探るまえに、男が苦笑した。
「ずいぶん無理をしたね、狼くん。その足ではもう、まともに動けないだろう」
「……足くらい、なんだ」
「その言いよう。狼くんは、戦に?」
「…………」
「まあ、答えなくてもいいよ。それに、風の魔法使いくん。きみは、もう疲れたのかな? ここにはほとんど火霊がいないから、それもわからないではないけれど」
 見ると、グラスランドが膝をついていた。
 疲労と、そしてこちらを染める赤い色に、真っ青な顔をしている。
「でも」
 姿なき魔法使いの声音が沈み、竜を飲んだ炎がかき消えた。
「遠慮はしないよ」
 宙に漂う水蒸気。
 それが、鋭い氷の刃へとふたたび姿を変えた。
 
 
 
 
 
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