それは、ラティエスの見せる幻なのか、それとも魔石が生み出した炎のしわざか。
ゆらり、と紅蓮の炎のなかに立った細い人影が、そっと両腕を上げて耳をふさぐらしい。
『ドウシテ、生マレテキタノ』
え、と綺翠は瞠目した。
声は、ない。
思念のようなものだった。
思いの、かけら。
魂を引き裂く悲鳴のように、それは胸のなかに聞こえた。
『痛イ。イマニモ、焼ケ崩レテシマイソウ』
「その痛みを……癒すことは、できないか」
それ自体が生き物であるかのように床を這う炎に全身を舐められながら、綺翠は人影のそばに寄った。
声も、顔も、なまえさえわからない、誰か。
たとえ癒すことができないのだとしても。それでも、少しでもいい、やわらげたいと思った。
すると、炎のなかにゆらゆらと揺れるそのひとが、ゆっくりと両腕を下ろし、こちらを見つめる。
その瞳が何色なのかさえ、わからない。
けれど、ふ、とそれが穏やかな色を灯したように思う。
炎の匂いのなかに、甘い花の香を、感じた。
そう思った、とたん、
「……あ」
す、とそれまでこちらを取り囲んでいた炎が、嘘のように掻き消えた。
ついで、全身を覆っていた痛みも、失せる。
まるでいくつもの蝋燭の炎を、たったひと息で吹き消したかのように。
残されたのはただ、
「……綺、翠……?」
石床に両手をつきがたがたと震える魔法使いと、魔剣。
そして、さんざんに焼かれたはずだというのにかすり傷ひとつない、魔狼だけ。
「綺翠……いったい……なに、を……」
その問いに、なにもしていない、と綺翠はゆるく首を振った。
魔剣を拾い上げ振り返ると、グラスランドの肩がおおきく揺れる。おおきな瞳に、あっというまに涙が溢れた。
「……ぁ……す、すみません……ぼ、僕……」
「もう、いい。わかっている。俺がおまえでも、たぶん、おなじことをした」
熱を失い埃のなかに無数に落ちた、蝶。
それはつまり、蝶のほかに、蝶を捕らえる氷の闇の存在を示すもの。
それを見たときの、そうとわかったときの、その激しい怒りと縋るような祈り。
とっさにグラスランドを止められなかったのは、彼とおなじく自分のなかにもそのふたつがあったから。
座り込むグラスランドが、綺翠ぃ、と顔を歪めて洟(はな)を啜った。
「そんなに泣くなよ、子どもじゃあるまいし」
「で、でも……だって……」
「いいから。それよりも、見ろ」
ふ、と息を吐いて、綺翠はそれまで分厚い蜘蛛の巣に隠されていた廊下の最奥を、見据えた。
「扉だ」
大輪の薔薇花と、四翼の鳥。
精緻な彫刻が施された重厚な扉が、そこに現れていた。
※
あれだけの炎がこの階一帯を包んだというのに、薔薇花と四枚の翼を持つ鳥を彫りつけた赤褐色の木の扉は、氷柱と霜の下に封じられていた。
押しても引いても開く気配さえない扉をまえに、さきほどの出火のせいですっかり自信を失っているらしいグラスランドが、苦い表情で綺翠を見下ろし、
「……あのう」
それに、顎をすこし動かし、魔法で扉をあけるようにと無言で指図すると、グラスランドは瞳を伏せておおきく息を吐き出す。そして、
「ごめんくださぁい、ここ開けてくださぁい」
扉をこぶしで叩き出した。
「やめろ!」
「ぎゃぁっ! ひ、引っ掻かないでくださいぃ。痛いじゃないですかぁ!」
「うるさい。ふざけたおまえが悪い」
「うぅ、だって僕、へっぽこ魔法使いだしぃ」
「だいたい、開けてくれ、と頼んでいる相手が誰なのか、おまえ、わかっているのか」
相手は、蟻塚を氷に閉ざし、『炎精の蝶』の真名を封じる、なにものか。
開けろ、と頼んでただで開けてくれるはずがない。
そう言って難じる綺翠だったが、
「……あ」
あ、とつぶやき眉を寄せたグラスランドに、扉を見やる。すると、
ガシャン。
と、目のまえで、扉を封じていた氷の鎖が床に砕け落ちた。
ゆっくりと、扉がおおきく音を立てて、ひとりでに左右に開かれる。
「……気をつけろ」
どうやら、見えない相手は、扉の向こう側でこちらを待つらしい。
開かれるその隙間から、真白い氷の煙が押し寄せてきた。
綺翠はそのなかへと、耳を向ける。
水の音が、した。
だが、ほかになにかが動く気配はない。
それでも気を緩めることなく、ラティエスの柄を咥えなおす。
そして一歩、部屋のなかへと踏み出した。
ひやり、と凍った空気に、心臓を掴まれたような衝撃。あまりの冷たさに毛皮を纏っていてもなお、全身ががくがくと震える。
「森羅の呼吸よ。我は命じる。氷の霧を払え」
グラスランドが風を喚び、部屋の内部を覆い隠す冷気の幕を隅へと追いやった。
そこに現れた光景に一瞬、寒さを忘れ、言葉さえも失う。
薄青に染まる、氷の部屋。
扉のまえの一部を足場として残し、床は一段低くつくられている。その下がった床が、氷の粒の浮く冷水で満たされていた。
氷の煙と流れる水の色を薄青に染めているのは、天井から降る仄かな光。
発光していると思われるものを探して天井に瞳を映すと、赤子の頭ほどの透明の球体が中央に填め込まれていた。
だがその球体は、部屋を照らす道具などではない。
薄青の光を放つ球体のまわりには、重力というものをまったく無視して、水が巡っていたのだ。つまり、呪具だ。
水が天井と青の魔法文字の描かれた壁を流れていることから、球体が水を生み出しているのか、とはじめは考えた。だがふと、扉の両脇にある水の流れに目をやると、左右の流れでは動きが違うことに気付く。
一方は重力に従い流れ落ちているが、もう一方は重力に逆らい天井に駆け上がっている。天井に上がった水は球体を一周すると、壁を流れ落ちていく。そして、床に下りた水は、部屋の中央にある、さらに濃い冷気が繭のように覆ったなにかを一周し、また壁から球体へと向かう。水は、延々とその動きを繰り返しているのだ。
どうやら球体が水を冷やし、部屋を覆う氷の幕と中央の繭をつくっているようだった。
グラスランドが、ふたたび風を喚び繭の一部を裂く。とたん、
「……っ!」
綺翠は、冷えた空気を鋭く喉に飲んだ。
空気に氷の破片でも混じっていたかのように、肺が痛む。
青白い繭のなかから、霜に覆われて白い、まるで鳥籠のようなかたちの牢獄が、現れたのだ。
そのなかに、ぐったりと伏した人影。
「『炎精の蝶』!」
なぜだかは、知れない。知れないが、それでもその人影がそのひとであると覚り、声を上げた。
扉の前からまっすぐに牢獄へと渡される、人ひとりがやっと通れる細い氷の橋。
そこを、一気に駆け抜けようとした。
だが、そのとき、
「ああ、いけないよ。そっちじゃない」
グラスランドのものではない男の声が、した。
そして、視界が突然、切り替わる。