一段一段、階段を上がるたび、室温が低くなっていた。
 身体が、冷えていく。
 毛皮を着ていないグラスランドはだいじょうぶだろうか、と階のとちゅうで振り返ろうとした、そのとき、
「痛っ!」
 グラスランドが声を上げ、蔓薔薇を模(かたど)った真鍮の手摺から、無理やりに左手を引き剥がした。
 手摺には、びっしりと霜がかかっている。
 てのひらを押さえて呻くグラスランドに駆け寄り、そのてのひらを返させると、手摺に触れた部分の皮が破けて血が滲んでいた。
 綺翠はグラスランドの鞄のなかから、ラティエスが包まれていた黒布を引き出すと、鋭い爪と牙で裂く。
「あああ、なにするんですか、もったいないっ! 上等の布なのにぃ」
「うるさい。これだけ寒いんだ、おまえの服を裂くわけにいかないだろうが」
「そうですけどぉ」
「巻いておけ。それから、杖が凍らないようにしろ。うかつにその辺に触れないように、気をつけろよ」
「うぅ。なんか、綺翠って……うちのおばあちゃんみたい」
「おまえも裂いてやろうか」
 じとり、と睨むと、渋々上等の黒布を両のてのひらに巻きつけるグラスランドが、悲鳴をあげつつも笑み声をこぼす。
 なんとも暢気というか、胆の据わったやつだ。
 獣のすがたでさえなければ、そしてこのような状況でさえなければ、綺翠も思わずそう笑みこぼしていたところだ。
 だが、
「骨に、くるな」
 すぐ上階から流れ落ちてくる魔力が、強い。
 ひどく冷たい尖った力が、こちらの歩みを阻む。
「でも、とまるわけにはいかないんです」
「ああ、わかっている」
 そう答えて、綺翠は五階への最後の段を踏み越えた。
「……う」
 とたんに温度のせいではない寒さに全身を逆撫でされるが、首を振り、おおきく息をしてそれに耐える。
「水霊が、ここに集中している。でもいったい、なんのために……?」
 緊張と魔力の圧迫のために苦しいのか、胸を押さえながらグラスランドが言った。
「どこだ、『炎精の蝶』」
 がらんとした空間のなかに、張り上げたわけでもない声がむなしく響く。
 ふと、その視界の端に、ずるり、と汚れた色を見た。
 さらに上階へと続く階段の踊り場では、薔薇花の意匠が施された布地が、割られて模様の知れない窓から、踏み躙られてくすんだ絨毯の上に、無惨に垂れている。
 どうやら五階から先には虚飾を施さず、ありのままの姿を見せるらしい。
 それを横目にさらに奥へと歩みを進めると、こつ、と爪の先になにか硬いものが当たった。
 分厚く埃が積もる床に視線をやると、埃のなかに無数に埋もれるものがあることに気付く。
 かたわらで、息を飲み凍りつく気配がした。
 グラスランドが、埃のなかに手指を差し入れ、それを拾い上げる。
 その顔が、青さを通り越して白くなっていた。
 怪訝に思い、綺翠は前足で埃のなかのものを掻き出す。
 それは、冷えた石だった。
 四枚の翅(はね)広げる虫のような、かたちの。
 冷気によって汚れた床に引き摺り落とされた、魔力の塊。
 飛ばそうとして果たされなかった、魂の、かけら。
 そうと知ったとたんに、心臓が音を立てて凍りついたのではないか、と錯覚した。
 だから、ひゅん、とグラスランドが杖を振ったことに、気付くのが遅れる。
「冷却され凝固した青銀の血流。魔力の破片はふたたび溶融せよ。我は命じる。爆ぜよ!」
 はっ、と息を飲んだときには、すでに呪文は完成していた。
「グラスランド!」
 凄まじい熱を足もとに感じ、完全に頭に血がのぼっているらしいグラスランドの襟を咥えると、うしろへと飛びのく。
 床一面の埃。それが、グラスランドの呪文によってあちらこちらで爆ぜる魔力の炎に舐められ、燃え上がったのだ。
 そのさまはまるで、ひとところに集まった無数の蝶のよう。
「く……っ」
 目隠しのように厚く垂れ下がっていた主のいない蜘蛛の巣が、爛(ただ)れるように焼け落ち、焦げた匂いと熱の波が押し寄せてくる。
 グラスランドが、しでかした事の重大さに気付き声をあげるなか、綺翠は炎のなかにとって返した。
 魔剣ラティエス。
 すぐに拾わなくては。
 なぜか、そう思った。
 吸い込む熱気が肺を焼くのではないかと、思う。
 痛みが、全身を覆った。けれど、
 そうだ。
 炎は、痛み。
 痛みのなかに、置き去りにはできない。
 
『……わたしは痛みに、愛された』
 
 だからそちらへは行けない、と哀しげに言ったあのひとは、果たして、
 誰だった。
 青い、どこまでも澄みきった深い青が、心に蘇る。
 そこにいるのは、誰だ。
 
「ラティエス!」
 
 ゆら、と炎のなかに人影が立ったように、見えた。
 
 
 
 
 
 
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