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正常な働きを取り戻した、金の懐中時計。そのなかに棲む緑色の小鳥が、日の出を告げてから、すこしあと。
「不気味ですね」
空を仰いで、グラスランドがつぶやいた。
見上げた暗い色の空に、塒(ねぐら)に帰るのであろう何千という蝙蝠(こうもり)のような形状の、ちいさな魔族の群れ。
それが空をうねる一匹の黒く巨大な蛇のように見え、なんとも不気味なさまだった。
見るなよ、と綺翠がゆるく首を振り呆れると、グラスランドはちいさく肩をすくめてあやまる。
「ラティエスを、渡しておきます」
打ち捨てられた王都に足を踏み入れたそのときから、足もとから冷気が這い上がってきた。
カナンリルド宮殿『蟻塚』を閉ざす厚い氷から漂うものだけではなく、気味の悪いなにかが身にまとわりつくようだ。
グラスランドが重たげに背から下ろした魔剣を牙と牙のあいだに受け取ると、その鼓動を熱く感じる。
ラティエスも、どうやらその気らしい。
「綺翠」
ふと呼ばれて、ああ、と唸るように答えた。
「死なないでくださいね。ちゃんと、魔法、解いてあげますから」
そう言って、グラスランドが杖を持つ手に力を入れる。
それに、解き方も知らないのによく言う、と綺翠は鼻を鳴らした。
だが、明瞭な言葉として発せられなかったその言葉に、グラスランドはちいさく笑う。
「生きてさえいれば、なんとかなりますよ」
「なら、グラスランド」
「はい?」
「おまえも、死ぬなよ。俺にかかった魔法を解くまで、絶対に死ぬな」
「……はい」
それは初夏の頃であったのか、広い庭は大輪の薔薇に埋め尽くされたまま、まるでそれらがはじめから融けない氷でつくられたかのように、凍り付いている。
そして、もとは真珠のように輝いていたに違いないが、いまは死んだ珊瑚あるいは動物の骨を堆(うずたか)く積み上げたもののように見える、あちらこちらが欠けて罅(ひび)割れた方錐形。
氷の庭を進んだ先にあって暗い冷気ばかりを吐き出すそれを、ふたりはまっすぐに見据えた。
白い石柱の精緻な浮き彫りも、内戦で受けた傷のためにか、大半が失われている。
大陸の華と謳われたカナンリルドの象徴であり中枢が、いまはまるで死が住まう城。
「行くぞ」
言って、綺翠は静かに目を閉じた。
どうやって、魔剣を思いのまま扱うことができるかなど、そんなことは知らない。
むしろ、魔剣に思いのまま扱われるだけかも知れない。
だがそれは、いまは、おけ。
進むのに邪魔な氷を融かしてしまえ、と高温の魔力に燃える青い宝玉に、念じた。
つぎの瞬間、
『いにしえの紅き花。それより生まれし燃ゆる力』
多くの魔力を食らい満ち足りたラティエスが歌い、足もとに赤い光が稲妻のように走った。
そしてそこに、大輪の薔薇花のような魔法陣が、現れる。
『我がまえに立ち塞がりしものを、疾(と)く焼き払え』
透き通る刀のなかで、渦巻いた炎が、踊った。
そして、
『我は放たん、炎の宝玉』
呪文の結びを待っていたといわんばかりの凄まじい勢いで、ラティエスは紅蓮に輝く炎の球を放ち、
「くっ!」
正面の重厚な扉をかたく閉ざしていた分厚い氷を、扉ごと割り砕く。
轟音とともに鋭い氷片があたりに花のように散り、しかし、それらがこちらへと届いて皮と肉とを裂くまえに、熱によって気体へと変えられた。
「ラティエスは、とても機嫌がいいようですね」
ふ、と苦笑したグラスランドの顔は、緊張で青ざめている。
「気が変わらないうちに、進もう」
誰の、とは言わず、綺翠はゆるく尾を振った。
そして、グラスランドと顔を見合わせうなずき合うと、まるで手招きをするような深い闇のなかへと、どちらからともなく飛び込んだ。
思わず足をとめてしまいそうになるほどの、闇と冷気。
そして、静寂。
そこかしこから染み出てきてはこちらへとまとわりつくそれらに、闇色の毛が逆立つ。
となりでは、グラスランドが身をすくめるらしい。
だが、宮殿内はささやかな明かりさえない、漆黒。
これでは、奥で動くものの気配を感じたとしても、それがなにかまではわからない。
「ど、どうしよう。僕、お腹痛くなってきたかも」
「……子どもか、おまえは」
言いつつ、一歩まえへと足を踏み出したとたん、
「っ!」
「ふきゃぁっ!」
突然の光に、目をふさがれる。
左右の壁に並ぶ燭台にいっせいに火が灯り、宮殿内を明るく照らしたのだ。
顔を背けて庇っていた目を開けたとき、一瞬、自分たちがどこにいるのかわからなかった。
視力が回復して最初に見たものは、金糸で縁を飾られた毛足の長い上等の赤絨毯。
それが、廊下奥の女神の彫刻美しい扉へとまっすぐに伸びていた。
両脇に並ぶ太い柱のあいだには、金や銀、宝玉で装飾されたおおきな磨き上げられた壺と、いまにも動き出しそうな白い女像が数体並んでいる。
高い天井には華やかな色彩で、カナンリルドに咲くのだろう花々が幾何学的に描かれており、金と赤の長い薄布がいくつも垂れ下がってゆるく揺れていた。
内戦で傷つけられ踏み拉(しだ)かれたはずだというのに、その飾り立てよう。それが、余計に寒々しく感じた。
どうやら、それらはついさきほど魔法によってつくりあげられた幻らしい。
魔法を発動したあとの気配が、隠されもしないでそのまま残っていた。
「気をつけろよ」
言いつつ綺翠は、魔剣をしっかりと咥えなおす。
とたん、蝋燭の炎がいっせいに怯えるように、ざわめいた。
魔剣ラティエスは、立ち塞がるものあらば片端から餌食にしてやろう、とばかりに、映した炎を刃の上に走らせる。
光沢のある絨毯を踏みつつ奥の扉へと進み、そのまえに立つと、中央に彫られた女神が左右に分かれ、ゆっくりとひとりでに扉が開いた。
やはり、手招きされているか。
綺翠は、現れた広間の奥にある大階段、色硝子を填め込んだ暗い薔薇窓のまえの踊り場から、左右に分かれて上階へと伸びる、その階の上をきつく睨み上げた。
グラスランドがなにごとかをつぶやき軽く杖を振ると、杖の先から銀色の煙のようなものが出てきて、小鳩ほどのおおきさの鳥のかたちとなる。それは、すい、と上階を目指して飛んでいき、しばらくすると羽音も立てずに戻ってきて、主の肩の上にすりよるようにしてとまった。
「五階で、進入を拒まれたようです。強い魔法が働いている、と」
グラスランドが緊張にかすれた声で言うと、ふわり、と偵察の鳥が闇に溶ける。
五階。
そこに、なにがいて、なにがあるのか。
喉に息を飲み、まずは綺翠が階段に前足をかけた。そして、一気に駆け上がる。