ありがとう、と花が咲きほころぶように微笑んだウタは、少し首を傾げて考えたあと、
「キアランは『黯い魚』って呼ばれているわ」 「くろい、さかな? なに? なにかの売人なの?」 「そうじゃないわ。本を書いたの」 「作家? 素敵。いまどきそんな人がいるのね。だったらすぐ見つかるわよ。安心して?」 しかし、ウタは首を横に振る。 「……禁書、なの。だから、キアランは隠れているのよ。この町の、どこかに」 「禁書?」 恋は軽く瞳を瞠った。それはつまり大人の本か、と訊くと、キャサリンが、いやだぁん、と身をくねらせて喜ぶ。しかしウタは大まじめな顔で、こくり、とうなずいた。 「そうよ、子どもが読むものじゃないわ。魂を奪われてしまうもの……って、キアランが言っていたわ」 「魂が奪われるくらい凄い大人の本……」 読んでみたいわぁ、と目もとを染めてうっとりしているキャサリンに腕を抱かれつつ、 「なんていう題名の本だ?」 「やっだ、恋ったらぁ。そりゃあ、題名からして官能的なんじゃないのぉ?」 「キャサリンが感応するかどうかは知らないけれど、本のなまえは『黯い魚の歌』よ。黒い革の表紙に、金の文字が押してある。でも、本のことはいいの。わたしは、キアランを捜して欲しいの。黒い髪と瞳をしているわ」 ウタの答えに、恋は首を傾げた。どうやら予想していたような内容の本ではなさそうだな、と長い睫毛に縁取られた憂いを含む銀色の双眸を見つめる。 「……つまり、その本を手がかりにキアラン・シンクレアを捜すことはできないのか」 「できないわ。本は、五年前に奪われたの」 「五年、前……か」 へえ、と恋はつぶやき、隠されていると感じたなにかを探るように濃いブルーの瞳を細めたが、すい、とウタは睫毛長い瞳を逃げるように伏せた。 しかしふたりのようすには気付かないキャサリンは、勘違いしたままで、 「そうと決まれば早速聞き込み開始ね。あぁん、なんだかわくわくしちゃうわ。それじゃあね、恋。のんびり待っていてちょうだい」 軽く音を立てて恋の頬にキスをし、バーイ、と色っぽく手を振る。そして、棚の上に置いていた派手なピンクのフェイクファーのコートを羽織ると、腰をふりふり、散らばる紙くずの上をピンヒールだというのに滑りもしないで歩き出した。 恋は、ぐい、とウタに顔を近づけて、 「今度こそ、なにがあっても部屋から出るな」 「恋、どこに行くの」 訊ねられて、無言で軽く睨んだ。そして、そのままウタに背を向けキャサリンに追いつくと、送る、と短く言う。 「あら、だいじょうぶよ。ボディガードならまだそのあたりにいると思うもの。それにふわふわして頼りないあの娘(こ)をひとりで放っておく方が、危ないんじゃなぁい?」 「それもそうだが、ボディガードが無事だとも限らないだろう。ひとりで追いかけるよりも、俺に送られた方が安全」 「あいかわらず優しいのね。これだからライバルが多くて困っちゃうわ」 「気合いが入っていいだろう」 肩をすくめるついでに振り返り、膨れっ面のウタに、部屋に戻れ、と手を振る。 「ねえ、あたしを専属にしてくれない?」 「独占したら敵が増えるし、金もないから」 「お金ならあたしが払ってもいいくらいよ。美形で腕の良いシャドウブレイカー、恋の女、なぁんて、みんなに自慢できるし箔がつくわぁ」 「つかないだろ。シャドウに目をつけられたとしても、ハクはつかない」 笑いながら先に外に出て周囲のようすを見てから、キャサリンを手招きした。 「ウタが外に出ないように見張っておいてくれよ、メリッサ」 横たわる石像に声をかけて、階(きざはし)を下りる。 すぐに抜けるように腰のホルスターに指をかけつつ、キャサリンの少しうしろを歩いてまるい広場を横切った。 ところどころ石畳がめくれあがった殺風景ななかを、冷えた風が過ぎる。 瓦礫の隙間をいく甲高い風の音に加えて、コンクリートに釘を打ち付けるような音が響く。 恋はちいさく溜息をつき、 「キャサリン。香水もそうだが」 「ピンヒールもいざと言う時に走れないからやめろ、でしょ? ふふ、わかってるわ。でもね、そのいざと言う時は、この釘みたいな踵でシャドウのおでこに穴を開けてやるのよ」 「そのまえに足を食いちぎられるぜ」 「あぁん、もう冗談よぉ」 優しいんだか冷たいんだかわからないわ、とキャサリンは恋の左手に指を絡め、文句を言いつつ、しかし浮かれたようすで先を歩く。 人気のない町に響くピンヒールの音につられて、特にシャドウが活発に行動する夜間は怯えて屋内に隠れている者たちが、美しい娼婦の姿を一目でも見てやろう、と顔を覗かせた。 若い男と娼婦が二人きりで歩いていれば、ふつうならしつこくちょっかいをかけられるところ。だが、娼婦の連れが恋だと気付いた時点で、飢えた男たちは忌々しげに舌打ちをするとそそくさと隠れた。シャドウに襲われたところを恋に助けられたという者もあるが、過去に恋にいらぬちょっかいをかけた結果、痛い目をみたという連中も多いのだ。 しばらく埃っぽい瓦礫のなかを歩いていくと、以前は銀行だったらしい建物のまえに、食い荒らされた遺骸が転がっていた。 そのかたわらにキャサリンが気味悪がるのを無視して屈み込みと、恋はしつこくまとわりつく蝿を追い払いつつ状態を確認する。 襲われたのは、昨夜。 腸(はらわた)を食われて骨が露わになっている痩せた遺骸は、襤褸(ぼろ)一枚を被っただけであとはなにも身に着けていなかった。シャドウに食われて死んだあと遺骸を見つけた者に盗まれたか、死ぬまえに売ってしまったかだろう。 恋は遺骸をきっちりと襤褸で包み込むと、ひょい、と無言で左肩に抱え上げた。 「ちょ、ちょっと!」 「食い残したものはまた食いに戻るからな」 「あなたって、潔癖なのかそうじゃないのか、わからないわ。ねえ、臭いが移るわ。コートも着ていないのに。あとにしたら?」 キャサリンが顔を歪めて言う。だが、彼女を送る道の途中に教会があるのだ、はやく片付ける方が良い。 「ねえ。恋ってばぁ」 曖昧に返事をしながらも、なかを食われているせいで軽い荷物を無言で抱えて歩いていた恋だったが、しばらくいくと、ふと気配を感じて足を止めた。 背後を振り返ると、銀行裏の瓦礫の山に素早く影が走る。 ちり、と全身に緊張が駆けた。 「キャサリン。裸足になれ」 低く言うと、キャサリンは震え上がる。 「嘘! 嘘でしょう? シャドウなの?」 「俺から離れるな」 「離れるな、って! だったら死んでるやつを捨ててよ! 早く逃げようよっ」 泣き言を言われて、ふ、とくちびるの端を歪めた恋は、しかしそれ以上なにも言わずに、遺骸を抱え上げたまま右手で腰の『デボラ』を抜く。 その、直後だ。 遠くから、いくつもの低い唸り声が地響きのように湧き上がった。 「もうっ、冗談じゃないわよ」 ち、と舌打ちをしたキャサリンが素早く裸足になり、持っていたポーチから金色に光る小型の銃を出し両手で構えて、用心深く周囲を見回す。 前方には気配がない。ゆっくり歩け、と指示をして恋はうしろ向きに歩いた。 すると突然、すぐ脇から黒い影が飛び出し、左肩の遺骸に体当たりする。 素早く左手を離して落下する遺骸を避けつつ『ダレル』を抜き、両脇の標的にそれぞれ狙いをつけた。 発砲はせずに、ざっと数を見る。 おかしい。 とっさにそう思った。 取り上げた餌は、ほとんど食ったあと。こちらふたりを狙うのだとしても、昼間から十九という数は半端ではない。しかも、しきりにこちらの匂いを嗅いでいるもののすぐに襲いかかろうという気配はなく、なにかを捜しているのかなかには首を傾げるらしいものもあった。 血のように禍々しく赤い双眸は、ただぎょろりとこちらを見据え、不気味な闇のように黒い獣毛をざわざわと震わせている。 右側の、一番近くにいる前足の太いシャドウは力が強い。そのうしろの口が耳まで裂けているものは、顎が強力。左のほかより小さい頭を上下させているやつは、頭のうしろに鋭い突起があり頭突きが得意。その向こうの耳の長い特に不細工なやつは、爪が危険。 そして、正面。 ひときわ大きく四肢の長いやつは、優れた跳躍力とスピードを持つ。それに、 その固体の左の耳にあいた、小さなまるい、穴。 じくり、と背の傷が疼いた。 あれはひどく頭が良く、凶悪。 厄介な、と内心で舌打ちをした恋は、迷わず、左から正面のシャドウに『ダレル』の銃口を向け直した。 すい、と正面のシャドウが赤い瞳を細める。 まるで悪魔のような姿のその獣は、しかし突然くるりと向きを変えた。続いて、ほかのシャドウたちも恋に背を向ける。そして、 「な、に」 瞠目する恋を尻目に、どこかいつもとはようすの違うシャドウのその群れは、黒い風のように走り去った。 拍子抜けするほどにあっさりと、だ。 わけがわからず、恋は瞠目したまま立ち尽くす。 すると、ひと呼吸おいて、キャサリンが騒ぎはじめた。 「え? なに、なんなの? 逃げてったの?」 脱ぎ捨てたピンヒールを拾うと、無言の恋に纏わりつく。 「やっだぁん、恋ちゃんってばシャドウにも一目置かれちゃってるのねぇ! 素敵っ!」 違う。そうではない。 どっ、と冷たい汗が噴き出す。 恋はシャドウたちが駆けて行った方角を、睨んだ。 ぎり、と食いしばった歯が軋む。 「……ウタ……」 声を絞り出すと、はしゃいでいたキャサリンがぴたりと黙った。 「ウタ……? え、ちょっと! あっちの方角!」 そう、呼び名はフロストロイド市立美術館。 シャドウが向かったのは、いまは恋の住処となっているあの場所がある、方角。 |