テーブルを綺麗に拭いて、ナイフの柄の彫刻部分の汚れを丁寧に落とし、鍋をぴかぴかに磨いたそのあとで二挺の銃を手入れし終えると、キッチン上の窓の向こうがゆっくりと弱々しく白みはじめた。
 軽く身体を動かし、銃の抜き撃ち訓練をする。
 しばらくするとベッドルームの扉が開いた。
 そこから出てきたウタの姿を見て、思わずテーブルに突っ伏してしまう恋(レン)である。
「どうしたの恋? もしかして泣いてるの?」
 泣いてはいないが泣きたくもなる。
 ウタのやわらかい花弁のようなピンクのワンピースが、こぼしたミートソースでオレンジ色に汚れていた。それはつまり、貸したベッドのシーツも同様に汚れてしまったということ。
 バンッ、と恋はテーブルを両手で叩きながら立ち上がり、
「くそっ! おまえ、それ脱げっ!」
 額に青筋を立てて、ワンピースを指差す。
 ウタは恥らって逃げたが容赦はできない。髪にもソースがこびり付いている。許せない。
「さっさといますぐ即刻脱げ! ああっ、壁にくっつくな! これ以上なにも汚すなっ!」
 ベッドルームに飛び込んで汚れたシーツを引き剥がし、引き出しからきちんとたたんで片付けていたジーンズとフードつきの薄茶のトレーナーを引っ張り出すと、無言でウタを捕まえてシャワールームに押し込んだ。
「シーツとワンピース、それから自分自身をしっかり洗え。洗ったらきっちりバスタオルで身体と髪を拭いて、シーツとワンピースを絞って、水滴ひとつ落とさずに出て来い。着替えはここに置く!」
 不機嫌に言って、扉を閉める。ほんとうなら思い切り閉めてやりたいところだが、壊れると困るので静かに閉めた。
 頭を抱えてふらりと壁に寄りかかる。もうソースは固まっていたおかげで、ウタがくっついた壁は汚れていなかった。
 腹を立てながらキッチンに立つと、硬いパンをミネラルウォーターで少し濡らしてからトースターに放り込み、パンが焼けるのを待つあいだにコーヒーを淹れる。
 怯えるように背後の扉が音を立てて開くが、振り返らなかった。
「……ごめんなさい、恋。暗かったから、こんなことになっているなんて気付かなかったの」
 漂ってくる、水の匂いと湯気。
 恋は短い溜息をひとつつき、焼き上がったパンを皿に放り投げた。
「閉めろ。カビる」
 ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で言ったウタは、ふたたび扉の向こうに引っ込んだ。
 そして、絞ったシーツとワンピースを抱えて出てきたウタの、彼女には大きなトレーナーの肩や胸に垂れた銀色の洗い髪に、無言で新しいタオルを巻いてやる。さらに、受け取った洗濯物を手際良く室内に張ったロープに干したあと、椅子に座らせた泣き出しそうなウタの前に、焼きたてのパンと淹れたてのコーヒーを出してやった。
「こぼさずに食え」
 これだけ人の世話を焼いたのは、一体何年ぶりだろうか。ダレルのおしめを変えてやったあとは、銃とナイフの師匠である本物の恋・ローウェル以来、か。
 残飯を漁っていた子どもがいつの間にか、このフロストロイドにあっては異常だといえる潔癖な大人になっている。それだけの時間が、過ぎていた。
 デボラが子どもを捨てた年齢を、いつのまにか、自分は少し追い抜いている。
 デボラはまだ、生きていてくれるだろうか。
 自分はあとどのくらい生きられるだろうか。
 それよりも、びくびくとこちらを上目に見上げつつ朝食を取るこの女は、これでほんとうにこの町で生き抜いていけるのだろうか。
「なんか。人間っぽくないよな、おまえ」
 なにげなく、そんなことを口走った。すると、
 銀の瞳が大きく見開かれて、凍り付く。
「…………なん、で?」
 マグカップを持った白い手が震えて、ウタはぎこちなくうつむいた。
 しまった、と軽い気持ちで傷付けたことを後悔して、寄りかかっていたキッチンから離れる。そして、頼むから泣くなよ、と内心で祈りつつ、うつむいたウタの顔を覗き込んだ。
 しかし予想に反して、ウタは泣いていないどころか泣きそうなようすでもなかった。
 いっさいの表情が、なかったのだ。
 星のようだった瞳が、いまはまるで硝子球のそれ。
「……ウタ?」
 あまりに無機質なそのさまにどこか薄気味の悪さを感じながら、細い肩に手を当てて軽く揺すると、はっ、とウタが我に返って顔を上げた。見る間に形の良い瞳に涙が溢れる。
 女に泣かれるのも、言いわけをするのも苦手。それならば、あとは頭を下げるしかない。
「酷いことを言った。済まなかった」
 すると、こぼれるビーズのように透明な涙を白い手指で拭いたウタは、静かに首を振った。
「ううん。もう、いいの」
 ウタ? と眉を寄せて再度声をかけると、ふふ、と可憐なくちびるから笑みがこぼれる。
 それを怪訝に思っていると、
「ウタ、って呼んでくれたから、もういいの。恋はもう、怒ってない?」
「え……ああ。怒ってない」
 思わず拍子抜けして、言った。
 なんだろう。なにか、違和を感じる。なにかがおかしい気がするのだ。
 可憐に笑ってみたかと思えば、冷たく暗いものを内に抱えて表情を消す。薄布の向こう側に、なにかを隠している。
 それは女独特の色香のようにも思えるが、この女にはそれだけでは済ませられない、ほかの女とはどこか決定的に違うものを感じた。
 つくりものめいた、生きているというにはなにかが足りないような、不気味な美しさ。
 しかしその時、バタン、と遠くで扉が閉まる音が聞こえ、はっ、と恋は我に返った。
「ここにいろ」
 表情を引き締め、腰のホルスターから『デボラ』を抜いて言った。だが、
「レーンーちゃぁん、いるぅ?」
 シロップ漬けの菓子のような甘ったるい女の呼び声に、思わずウタと顔を見合わせてしまう。それから恋は気まずげに目をそらし、
「とりあえず……ここにいろ」
 『デボラ』を手に握ったまま、部屋を出た。
 エントランスに顔を出すと、とたんに白い腕に首を絡め取られる。やわらかい女の身体が、安物の香水の匂いとともに押し寄せてきた。
「あぁんもうっ、恋ったら昨日もおとといも呼んでくれないんだものぉ、あたしのほうから来ちゃった。会いたかったわぁ」
 裾が太股のあたりで妖しく揺れる、肌を透かせる黒いキャミワンピース。その下の豊かな乳房を恋に押し付けた娼婦は、ピンヒールの踵を艶かしく上げて、曖昧に返事をする頬にキスをひとつ落とす。
「あ、ちょっと待て。おい!」
 そのようすを確認した娼婦の用心棒が、恋の止める声を無視して立ち去った。
「いやぁよ、恋。まさかあたしに恥なんてかかせないわよね? 近ごろはシャドウが多くて忙しい、って聞いてたから昨夜は勘弁してあげたのよ? こんなに我慢強くて優しいあたしを追い返すの?」
「キャサリン、悪いが……」
「ひっどぉい。あたしに会えて嬉しくないって言うのぉ?」
「いや、そういうわけじゃない。だが、これから仕事が入っている」
「ええ〜っ。今日もぉ? ねえ、ちょっと働きすぎなんじゃないの? 早死にするわよ。ただでさえ危ない仕事なんだから」
 疲れた顔をしてるわ、と少し年上の娼婦は心配そうに言いつつ、恋の金色の前髪を丁寧に染めた爪でかき上げて、首に巻きつけた腕をほどいてくれた。
「ねえ、昨夜はしっかり眠ったの? ふらふらしてちゃ、シャドウに食べられちゃうわ。もう。どうせ食べられちゃうんなら、先にあたしが食べちゃうわよ? ベッドから起き上がれなくしてあげたら、シャドウには食べられないわね」
 蠱惑的な赤いくちびるに艶やかな笑みを浮かべるキャサリンに、恋は首を振る。
「一度受けた仕事は断らない。信用をなくすと仕事をもらえなくなるからな」
「あら、マジメねぇ。でも、そういうところも好きよ」
「キャサリン。まえにも言ったが……」
「香水はつけるな? わかってるけど、昨夜はいつもより汚いところで寝たんだもの。恋の部屋で一緒にシャワーを浴びようと思って」
 ふふ、と身体をくねらせるキャサリンに苦笑をこぼした恋は、しかしそこで、不意に背後からのじとりとした視線を感じ、ゆっくりと肩越しにその気配を振り返った。
 扉の隙間からウタが覗いている。
 突然沈黙した恋に気付いたキャサリンも、その視線をたどってゆっくりと振り返り、
「っ! ちょっとなによ、あの娘っ!」
「……まったくだ。なんで出てきたんだろうな」
「やだっ! 恋の服着てるじゃない! 信じらんないっ! あたしよりもあんな、あんな、頭の軽そうな女とぉっ?」
 このあたりで一番の娼婦のプライドで、自分より若くて綺麗な、とは決して言わない。
「わたし、頭は軽くないと思うわ。頭は」
 ウタも負けずに言い返して、キャサリンの神経を逆撫でする。
「どういう意味よ、それ? あたしのお尻は軽いとでも言いたいの? それともあたしがあんたよりデブだって言いたいの? ふざけないでよ、あんたなんか骨と皮だけじゃないっ!」
「あなたのことは知らないわ。それにわたしは骨と皮だけでできているわけじゃない。それは違うわ。ちゃんと血も肉もあるもの。見てもわからないなら触ってみるといいわ」
「なんっなの、その自信満々な態度はっ!」
 甲高くわめき散らす声ががらんとした館内にわんと響き、恋の疲れた頭を刺激した。一度治まったはずの苛立ちが、じわりと再発する。
「……うるさい」
「ええっ? なによっ?」
 うるさい、と恋がつぶやくとふたりに睨まれた。仕方なく、つい、と据わった青い瞳を、壊れた棚に塞がれた左側の階(きざはし)の方へと向け、
「シャドウ……」
 ぼそり、とつぶやいてみる。
 とたんに、キャサリンは派手な悲鳴を上げて恋のうしろに隠れた。だがいつまでたっても銃を構えない恋に、え、と顔を見上げる。
「え……嘘?」
 ウタが扉の影から出てきて、元は受付らしい台にしがみつき乗り上げるようにこちらの顔を覗いた。しかし恋のようすに気付き、台の向こう側でゆっくりと小さくなる。
 ようやく静かになったところで、こちらの腕を掴んだままのキャサリンの手を放させ、きょとんとしているその顔を見下ろした。
「頼みがある」
 短く言うと、美しく化粧されてくるんと長く上向いた睫毛が瞬いた。
「キアラン・シンクレアという男を知るやつがいないか、訊いてまわってもらえないか」
 ウタが、え、とつぶやいて台の向こうから顔を出すが、それは見ないふりで、キャサリンの少しばかり赤みの強い金髪の先を指に絡ませる。
「もちろん、キャサリンは一番の売れっ子だ。忙しいのはわかっている。だがその分、情報網は俺よりもずっとひろいし、なにより、こんなことを頼める人間がほかにいない」
「恋? 人捜しなんて……?」
「そこにいる頭の軽い女だが、あれが今日の依頼主だ。キャサリンの同業者じゃない」
「わたしの頭は軽くないと思うのだけど……」
「そいつの阿呆加減に驚くあまり、思わず依頼を引き受けてしまった。さっきも言ったが、一度受けた依頼は断れない。だが俺は、シャドウ相手ならなんとかなるんだが、人間を捜す能力は長けていない。ほかに頼めばいいと思うかもしれないが、それは弱みを見せるようで嫌なんだ。だから、キャサリン」
 そこまで言うと、恋に夢中の娼婦はすっかり機嫌を直して身をくねらせた。
「なぁんだ。恋ったらぁ。それならそうって最初から言ってくれれば良かったのに。恋のためならあたし、頑張っちゃうわよ?」
「そう言ってくれると思っていた」
「キアラン・シンクレアだったわね? 仲間の女の子たちだけじゃなくって、お客さんたちにも聞いてあげるわ。それで? どんな男なの? もう少し詳しく教えてちょうだい」
「ウタ」
 どんな男だ、と振り返ると、ウタはピンク色のくちびるをわずかに尖らせて、恋の腕に白い腕を絡めているキャサリンを見つめる。
「ほんとうに、捜してくれるの?」
「あぁら。別にあんたのために捜すんじゃないわよぉ。あたしは恋のために捜すのよ」
 そう言いながらも、もともと面倒見の良いキャサリンは赤いくちびるを笑みに歪ませ、
「まあ、任せておきなさいよ」
 と色っぽくウインクしてみせた。
 
  

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