「まあ、そうやって生きていると色んなやつに会う。それで、俺はある日、頭から襤褸を被った汚い格好の男に会った。追われている、とか言っていたな。そのとき住みついていたマンホールの下をしばらく貸してやるかわりに、俺はそいつから銃とナイフの扱い方を教わった。筋が良い、と褒めてくれたそいつがいまもどこかで生きているのかは知らないが、そいつがくれたナイフはいまも使っている。あと、なまえもな」
 恋・ローウェルは、デボラがくれたなまえではない。それはもう、とうになくした。
 なんだか色っぽいなまえ。でもアンタには似合わないよ。俺にくれない?
 そんなふうに言ってみると、男はなまえに執着がないのか、意外にもあっさりとうなずいて、それから大切にしていた綺麗なナイフまでくれた。
 いまはそのナイフをシャドウの目玉を抉るのに使っている、などと明かしたら、あの男は怒るのだろうか。だが、だからといって狼の彫刻のナイフを、粗末に扱っているつもりはない。自分にとっても大切なものだ。
「でもいまはマンホールの下ではなくて、壊れた美術館に恋はいるのね」
「ああ。一度死んだからな」
 こともなげに言うと、オレンジ色に染まったウタの双眸が大きくなった。
「ええっ、死んじゃったのっ?」
 素っ頓狂な声を上げられて、笑う。
「ほんとうには死んでないぜ? 死にかけた、ってだけ。シャドウに襲われてな」
「シャドウ?」
「おい。まさかそれも知らないのか? おまえも黒いのに追いかけられたんだろう? その黒いのがシャドウだ。赤い目玉の黒い獣」
「あれ、シャドウって呼ばれているの……」
 そう、と長い睫毛を伏せるウタを、ほんとうに変わった女だな、と恋は無言で眺めた。
 なにか得体の知れないところがある。それはどこか、シャドウと似ているような気がした。
 だが、だからといってこちらの命が危うくなるような感じはしないのだ。
「ねえ。つづけて?」
 うながされて、恋は小さく溜息をつく。
「なにしろはじめて見る化け物だったから、情けなく棒立ちになってしまって……で、囲まれて引っ掻かれた」
「どこを引っ掻かれたの? 見せて?」
 嫌、と短く拒否して睨み付けると、ウタは怯んで口を閉ざした。ごめんなさい、と言いつつ少しうしろにずれる。
 そんなものは、別に見せびらかすようなものではない。
 自慢げに見せびらかすような者もあるいはいるのかも知れないが、すくなくとも恋は違った。
 それはシャドウに襲われて生き残った証であると同時に、恥でもあるのだ。
 当時はシャドウブレイカーではなかったとはいえ、そんなものを見せびらかす気にはならない。
「とにかく。俺は鉛をめちゃくちゃに撃ち込んで、這って教会に逃げ込んだ」
「教会」
「近くにあったからな」
 いや。それだけではなかったかも知れない。
 どうせ死ぬのなら、いるはずのない女神などに祈りを捧げているやつらを指差して、祈っても救ってくれるやつなんていないんだ、と嗤ってやりながら死んでやろう、ともしかすると思っていたのかも知れない。
 けれどそこで、ある修道女に出会った。
 それまでは、教会なんて現実から瞳をそらしているやつらが閉じ籠もっている気味の悪い場所、程度にしか思っていなかった。
 けれど、白い手で懸命に介抱されて、優しい声で回復を祈られて。
 修道女と娼婦なんて全く別のものなのに、なぜか幸せだった子どものころようにデボラに守られているような、そんな気がした。
 そう思うと、不思議に生きようという気力が湧いてきた。
 腐った大人と野良犬のような子どもが溢れた、腐臭漂う汚れた町で、けれど、死ぬことよりも生きることを選び取った。
「だが、その修道女は死んだ。危険をかえりみずにたったひとりで外に俺の薬を買いに出て、そしてシャドウに食い殺された。なまえも聞いてなかった。礼だって、言ってなかったのにな。だから俺は……人間を狩るシャドウを、狩ることにした」
 半年間、教会で身体を回復させるついでにもう一度銃とナイフの訓練をして、そのあと命の続きをくれた修道女と約半年の滞在を許した教会への礼として、一年契約でシャドウを無償で祓ってやった。
「で、いまは教会からシャドウの赤い目玉と引き換えに報酬を得ている、腕利きのシャドウブレイカーとして活躍中、ってわけだ」
 そうしてふざけた調子で肩をすくめてみせて、過去の話は終わり。
「……恋、大変だったのね」
 ぽつん、とつぶやいたウタに、乾いた笑い声を吐き出す。
「別に面白い話でも、珍しい話でもないが。ただ、そうやって死んだ修道女もいたってことを、知っておいて欲しいと思っただけ。いらないことまで長々と話したが」
「ううん。恋が自分のことを話してくれて、嬉しいわ。わたし、あまり……知らないから」
 汚い人間しか、知らないから。
 そう言って、ウタはまっすぐに見つめてくる。どこか、悲しげな顔をしていた。
「恋は……デボラのこと、憎んでないのね」
 ああ、と恋は笑う。
「いまも、愛している」
「ねえ、どうしてなの? 捨てられたのよ? もう要らない、って捨てられたのに」
 オレンジ色の光のなかで小さな埃が、無知で無邪気な子どものように宙を舞っている。
 腕を伸ばして、そっとウタの銀色の髪の上にてのひらを乗せた。
「だったらおまえは、父親だっていうキアラン・シンクレアを、憎んでいるのか?」
 え、と銀の瞳が大きく見開かれる。けれどすぐに睫毛を伏せて、ウタは首を横に振った。
 まるで迷子の小さな子どものような。
 遠ざかる親に、それでも精一杯手を伸ばすように、
「憎んで……ないわ。いまも、大好きよ」
 そうだろう、と美しい顔を覗き込んで恋は笑った。だから捜しているのだろう、と。
「俺は、あれで良かったんじゃないか、とそんなふうに思えるようになった。デボラは気付いたんだ。もう、時期が来た、と。ひとりで生きていく時期がこの子には来たんだ、と。だから別の、新しい子どもを生んだ。つぎの、生き甲斐にするために。デボラは、生きるために俺を捨てた。たぶん……先に手を離したのは、俺のほうだったんだ。あのときは気付かなかったが……いまは、そう思う」
 だから、思うのだ。
 デボラは、美しく優しい人だったと。
 自分はいまでも彼女を、確かに愛していると。
「こんな町で、自分の愛するものを見つけるのは大変だと思う。だがはじめから全てが敵だと決めつけるのも、少しもったいないぜ?」
「……そう、なのかも……知れない」
「よし。それじゃあ、おまえはここで寝ろ」
 そう言うと恋は立ち上がり、ベッドルームを出て行こうとした。しかし、恋、と呼び止められて肩越しに振り返る。
「どこに行くの?」
「あ? そっちの部屋。さすがにいまから外に出て行こうとは思わないからな。銃とナイフを、もう少しちゃんと愛情込めて手入れするつもり。一緒に寝て欲しいとか言うなよ。報酬を先に払うっていうなら別だけどな」
「あ! そうだわ。わたし、お金を持ってない……」
「見りゃわかる」
 そうなの? という不思議そうな声に恋は肩をすくめると、さっさと扉を閉めた。
 部屋の明かりを点けて、腰のホルスターから銃を、『デボラ』を抜いてテーブルに置き、棚から『ダレル』と二本のナイフを取ってくると、椅子に身を投げ出すように座る。
 なぜ、これまで誰にも話さなかったことを、ウタに聞かせたのだろうか。
 デボラの夢を見た、すぐあとだったからだろうか。
 それとも、おなじように親に捨てられたらしいウタに、情が少しでも湧いたからなのか。
「は。どうかしている」
 つぶやいて、ふと薄いミートソースの匂いが部屋に満ちていることに気付き、そういえば鍋はどうしただろう、と眉を寄せた。薄闇のなかよく見ると、鍋はキッチンに戻されてはいるものの、テーブルの上にはソースがこぼれたまま。
 かろうじて銃は、汚れていない木目の上。
 しかし嫌な予感がして、ナイフの刃先を摘まんで持ち上げてみた。
 狼は薄いミートソースを口に含み、一体なにを思うのだろう。
「あの阿呆女……っ」
 薄暗い部屋でひとり、恋は少し泣きたくなった。
 
 
  

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