少々早まったことをしたのかも知れない。
 あまりの眠気に朦朧としつつほとんど気力だけでキッチンに立ち、ミートソースの缶を開けてその中身を鍋に移す恋は、ぼんやりとした頭でそう思った。
 行きたいところまで連れて行く、と軽く約束したが、明日中に終わるのだろうか。
 ウタはなにが嬉しいのだかにこにこと微笑みながら、淹れてやった甘いコーヒーをこの部屋に一脚しかない椅子に座って飲んでいる。
 ソースの鍋に茹でたパスタを入れ、そのままの状態でテーブルの上に、どん、と置いた。そして恋は、食っていいぞ、と溜息のように言う。
 もうあとほんの少しで、目蓋が完全に閉じてしまいそうだった。
 この部屋から出ないならなにをしてもいいが銃とナイフには触るな、となんとか言いおくと、ふらふらとベッドルームの扉を開け、恋は硬めのベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
 
 ああ、そうだ。
 『デボラ』は、腰のホルスターはつけたままだっただろうか。
 
 ……デボラ。
 
 綺麗で優しい、デボラ。
 白くてやわらかい腕に抱かれていると、そこがどんなに暗くてじめじめした場所でも、自分は誰よりも幸せだと思えた。
 甘くて心地の良い声音で呼ばれると、彼女からどんな男の匂いがしたとしても、自分は誰よりも愛されていると思えた。
 泥水を啜ろうと、残飯を漁ろうと。
 デボラがいてくれるだけで、とても満ち足りていた。幸せだった。
 あの日までは。
 
「デボラ、って誰?」
 すぐそばで聞こえたどこか甘さを含んだ澄んだ声音に、苦しい夢から現実に引き戻された恋はうっすらと瞳を開けた。
 まず視界に飛び込んできたのは、闇のなかで煌く銀色。
「…………なにしてんだ、おまえ」
 かすれた声でつぶやくと、ベッドの端で頬杖をつきこちらを見つめていたウタが、ふわりと笑うらしい。
「なに、って。見ていたのよ、レンを」
 なんで、と訊ねつつ、うつ伏せの状態から仰向けになる。
「綺麗だから」
 それを聞いて、あのな、と上半身を無理やりベッドから引き剥がした。
「俺は、綺麗だとか言われて喜ぶタイプの男じゃないし、嫌なこと思い出すからやめろ」
「嫌なこと、ってなに?」
「訊くなって……あぁ、もう。ちょっとまえ、腹がぶよぶよした司祭に、分かりやすく言うと、愛人になってくれ、としつこく迫られた」
 すると白く美しい顔をしかめたウタが、最悪、と吐き捨てる。なんとなくそれが、やわらかな花のように見える彼女には似合わないような気がして、恋は苦笑した。
「仕方なく銃のグリップで殴ってやったら、鼻がひん曲がって……泣きながら逃げてったな、あの司祭。あれから見てない」
「ふふ。いい気味」
 銀の瞳を細めて薄く笑んだウタの顔が、不意に、まるで闇のなかで男を弄ぶ悪女のもののように思えて、恋は思わず眉を寄せる。眠気が潮のように、すい、と引いた。
 ウタは教会を嫌っているのだろうか、とふと思う。修道女か、と訊ねた時も、一瞬暗い感情をその顔に浮かべていたようだった。
 こんなどうしようもない町のことだ。腐ったやつなんてあちらこちらにいる。けれど、
「まともなやつだってたまにはいるってことを、俺は知っている」
「え? なに?」
「教会にだって、な。そういう色ボケジジイや腹黒いやつもいるが、なかにはほんとうに人のために働いているような、ばかみたいにまじめでまっすぐなやつも、確かにいる」
「…………わたしは、知らないわ。そんなの」
 返った暗い声にわずかに瞠目した恋は、不意に立ち上がったウタの白い姿を横目で追う。闇に隠れた彼女の表情を、読もうとした。
「教会なんて、欲にまみれたろくでもない人間ばかり。汚いわ」
 その言葉には、まぎれもない憎しみが込められている。
 ふ、と小さく溜息をついた恋は、ベッドのかたわらにある傘のついた電球に手を伸ばした。パチリ、と音がして灯ったオレンジの光に、瞳を細める。
 すぐに目が慣れた恋は、同様に眩しさに瞳を細めていたウタを見つめた。
 朝まで眠るはずだったのに、目が冴えてしまって、もう眠れそうにない。
 眠りをあきらめた恋は少し身体をずらして、曲げた左膝に左腕を乗せ、座れば、と伸ばした右足のかたわらを右手で軽く叩いた。
 わずかに戸惑った顔をしたウタだったが、しかしすぐに小さくうなずくと、ベッドの端の方にちょこんと座る。
「眠れそうにないから、話すけど」
 なに、とウタはもとの無邪気な様子で首を傾げた。話を聞く気があるらしい。
 壁紙もなにもない冷えたコンクリートの壁に頭をつけ、ぼんやりと恋は暗い天井を眺めた。
「さっき訊いただろう。デボラのこと」
「ええ、訊いたわ」
「デボラは……俺の、母親。十四の時に俺を生んだ、美しい人だった」
 若くて美しいデボラは、娼婦だった。
 フロストロイドのどこか。細い路地裏の地下で、仲間と暮らしていた。
 内戦だかなんだかの昔のごたごたのせいもあってごみごみとした汚い町に、デボラは毎晩派手な服を着て、自分の身体を一夜買ってくれる相手を待って立っていた。
 客にもらった金の半分で安物の服と飾りを買い、残りの半分はビールの缶に貯め、貯まったその金で生まれたばかりの子どものために清潔なミルクとおむつを買う。自分はこっそり料理を出す店の裏で残飯を漁り、飢えを凌いでいた。
 あなたはわたしの生き甲斐なの。
 いつもそう言って抱き締めてくれた。
 七つになるまでは。
 デボラの帰りを待っていると、寒さと空腹に耐えられなくなる。
 だから、七つになって幾日か経ったある日、デボラの古い服を着てデボラの口紅を幼いくちびるに塗り、勝手にデボラのあとをついて行った。
 行かなければ良かった。
 見知らぬ男に小さな手を引かれ、暗いところへと連れ込まれそうになって泣き出したところで、それにデボラが気付いた。
 そのときはじめて、殴られた。それから無言で路地裏の地下へと引き摺って連れ帰られて以降、二度とデボラは抱き締めてはくれなかった。
 そのうち、デボラは別の子どもを生んだ。
 半分血の繋がった弟のなまえは、ダレル。デボラに似て、とても美しい子どもだった。
 デボラの愛情は全て、ダレルに注がれた。
 自分にはわずかな愛情さえもう与えてはもらえないのだ、と幼くともそれはわかった。
「そして、俺は捨てられた。そのあとはデボラを思いながら、この冷たい町で残飯を漁りつまらない盗みをはたらいて、なんとか命を繋いだ。誘われたり迫られたりすることはあったし、そうする方が手っ取り早く稼げるのかも知れなかったが、俺は娼婦にはならなかった」
 あの時殴られた頬が、とても痛かったから。
 そう苦笑すると、なめらかで白いほっそりとした手がそっと頬に触れてきた。いまは痛くない、と首を振ってやると、ウタは少し安心するらしい。
 
 
  

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