舌打ちをした恋(レン)は、枕の下にある弾を入れたケースを取り出した。中身をジーンズのポケットに押し込むとベッドルームを飛び出し、『ダレル』とナイフを収めたホルスターを素早く左腿に付ける。
 キッチン側の壁の上方にある鉄格子の填まった小さな窓を振り返るが、そこに問題はないようだ。外はまだ完全な闇に覆われてはいない。
 音を立てないように慎重に鍵を開け、勢い良く鉄製の扉を開けると同時に、さっ、と前方に銃口を向けるが、硝子を散らした小部屋にはなにもいない。
 『デボラ』を構えたまま、立てかけた板を蹴りその上を駆けた。板を立てかけ直すと、鍵のない扉を今度は一息には開けずに少しだけ開いて、円形のエントランスホールを窺う。
 右側の階(きざはし)の下に倒れている棚の、その上にあった紙くずがいくつか下に落ちていた。
 やはり、上だ。シャワーを浴びているあいだにでも入り込んだのだろう。
 するりと抜けた扉をしっかりと閉めると、足音を立てずに紙くずの落ちた棚まで移動した。棚の陰に身を隠して、エントランスを半ばから縁取るようにカーブを描き二階に続く左右の階を、ざっ、と見る。そこになんの影もないことを確認すると、それこそ息を潜めて獲物に忍び寄るしなやかな獣のような身ごなしで、恋は身を低くしながら階を駆け上がった。
 壊れた額縁、割れた陶器の破片。
 それらを踏みつけて音を立ててしまわないように、用心深く二階奥へ。
 ガチャンッ。
 傾いた棚の向こうで、硝子ケースが割れる音。
 ついで、かすかに悲鳴が聞こえた。
 きゃ、と聞こえた気がしたのだが、気のせいだろうか。まさか、と思いつつ棚の隙間から覗いてみると、ふわ、とやわらかいピンク色のなにかが翻ったような気がした。
 女か、と思うが、そんなはずはない、とすぐに眉を寄せてそれを打ち消す。
 フロストロイドの女たちは、修道女と娼婦以外のほとんどが遠くの町に避難しているのだ、凶暴なシャドウがうろつくこの町にわざわざ帰ってくる阿呆はいない。しかも、修道女はピンクではなく白だから、除外。
「……まあ。阿呆でも、女だったら大歓迎」
 だが、ピンクのシャドウが生まれないとは限らないし、女装趣味の同業者かも知れない。どちらにしろ、油断大敵。
 ひゅっ、と恋は細く息を吐き出し、
「動くなよ」
 棚の陰から飛び出し、押し付けるように銃口を向ける。すると、
「きゃっ」
 今度こそ、女だとわかる悲鳴が上がった。
「……ホンモノの、女?」
 これで男だったら嫌だな、と薄布を花弁のようにいくつも重ねたワンピースを着た侵入者の、頭の上から足の先までを恋は眺める。
 この触れれば壊れそうに細い身体の線は、間違いなく女のもの。
 背に波打ち流れる銀色の髪の先は花のようにゆるく巻かれて、まるで霧のように真白な頬を包んでいる。大きく瞠った瞳も銀色で、これは町がいまよりもう少しだけマシだったころ、空を薄く覆う雲の切れ間に垣間見た、星の光を集めたもののようだった。
 驚いて口もとに当てていた細い両手を外すと、ピンク色のくちびるが現れた。
「ああ、驚いた」
 ふふ、とそのややふっくりとしたくちびるから、可憐な笑みがこぼれる。
 思わず、銃を持つ腕が下がった。
 これほどまでに美しい女は、かつて見たことがなかった。なんという名だったか、教会に飾られたこの町の神像よりも、ずっと。人間が想像する完璧な美しさを超えているだろう、いっそ不自然なほどに凄絶な美貌。
 触れればこちらの体温で解け落ちるのではないかと思わずにはいられない、汚れない氷雪の肌は、やわらかな曲線を描きつつ艶やかにこちらを誘い、長い睫毛にくっきりと縁取られた形の良い銀の双眸は、磨いたナイフのように輝きながら胸をつらぬくようだ。
「あなた、ここに住んでいるの? だとしたら、ごめんなさい。黒いのに追いかけられて、慌てて逃げ込んだの。すぐに出て行くわ」
 そう言った女が首を傾げると、ふわ、と甘い香りが仄かにこちらの鼻先をくすぐった。
 恋はもう一度、銃口を上げる。
「娼婦か? 呼んでないぜ」
 娼婦でもひとり歩きなど決してしないのだ。相手が絶世の美女だろうがなんだろうが、怪しいものには気を許せない。
「ええ、呼ばれてはいないわ。でも、ショウフ、ってなに?」
 心底わからないという顔で首を傾げているが、演技だろう、と恋は軽く肩をすくめた。
「そうやってなにも知らないようなふりをしてもらっているところ悪いんだが、今日はいらない。歓迎はするけど、今日はダメ。疲れてる」
「なにがいらないの? ダメ、ってなにが?」
 首の傾きが深くなった。
「娼婦じゃ、ないのか?」
「わたし、そういうなまえではないわ」
「…………娼婦は、なまえじゃなくて職業」
「しょくぎょう。ああ、職業。違うわ」
「まさか、シャドウブレイカー?」
「いいえ、違うわ。ねえ、それはなに?」
「じゃあ、修道女?」
「違うわ!」
 思いがけず激しく否定されて、銃を向けたまま片方の眉を跳ね上げる。
「だったら、何者?」
「わたしは……ウタ、よ」
 少し考えて、女が言った。
「ウタ? なまえか。で、連れは?」
 そう言いつつも、このウタと名乗った女以外に気配がないことを、恋はとうに感じとっている。けれどこんな頼りなげな女が連れもなくこの町をうろつくなど、考えられないのだ。
 それに、おそらくウタとは偽名だろう。名乗る際の不自然な間に、そう覚った。
「おまえ、ひとりか?」
「ええ、そうよ。ひとりでここに来たわ」
「冗談だろ」
「ほんとうよ。なぜそんなことを訊くの?」
 と言うことは、よほどの強運を持ったホンモノの阿呆なのか。まあ、これだけ汚れて寒い灰色の町だ。頭のおかしな女が出てきても、仕方がないのかも知れない。
「なんだってひとりで外をうろついてるんだ」
 銃を見ても全く怯えない、あいかわらずふわふわとしたようすの相手にあきれつつ、効果のない脅しを突きつける腕を下ろして、そう訊ねた。
「人を、捜しているの」
「へえ。家族、とかか」
 訊ねると、ウタはどこか宙を歩むような足取りで主の持ち去られた台座に歩み寄り、その端に腰掛ける。そして、ふふ、と笑った。
「あなたは質問ばかりね」
 苦笑をもらして、恋は腰に手を当てる。
「だったら、そっちも質問してみるか?」
「いいの?」
 とたん、子どものように銀色の瞳を輝かせたウタに、少し意地悪をしてやりたくなって、
「やらせてくれるなら」
「なにを?」
 これはダメだ、と苦笑して恋は首を振った。
「なんでもない。いいぜ、無条件で」
 肩をすくめてみせると、いまでは古書のなかにしか見られない春花のように、ウタが笑う。
「優しいのね」
 それは大きな勘違いだ、と思ったが黙っていることにした。あまりに綺麗な微笑みだったので、壊すのがもったいなかったのだ。
「ねえ。あなたのなまえを、教えて?」
「恋・ローウェル」
「素敵ななまえね。あなたはショウフなの?」
 思わず笑みこぼしつつ首を振ると、ウタの白い頬がほのかに染まった。
「あなたは綺麗だわ。優しいし、とても素敵」
「は。どうだか」
「悪い人ではないでしょう?」
 笑いながら左肩をかたわらの棚に預ける。ギシ、と棚は音を立てたが気にはしなかった。
「それも、どうだか。良いやつなのか悪いやつなのかなんて、この町ではどうでもいいことだろう。そいつがいま、敵なのか味方なのかは自分で感じ取るしかない」
「そうなの? なんだか難しそうね」
 ちょこんと首を傾げるウタは愛らしい声で鳴くピンク色の綺麗な小鳥のようで、虚しさだけが漂う半壊した薄暗い建物のなかは、それだけで少し明るくなったように思える。
 夜の闇は確実に深まっていた。自分の姿は影に沈んでいるはずだろうに、けれどウタはまるで幻だか夢だかのように白く浮かび上がっている。
 薄い八重の花弁から伸びた細い足の白さが思いがけず瞳に染みた恋は、ふい、と顔をそらし、かわりに等間隔で奥へと並ぶ円形や箱形の台座を順に眺め、最奥の台座の上に破片を落とす穴の開いた天井から、薄暗い空に瞳を向けた。
「ここも、壊れているのね」
 不意にウタが言い、恋は視線を戻す。
「は。壊れていないものなんて、フロストロイドにあるものか。ここにごてごてと美術品が置かれていたのは、俺が生まれるまえのことだ。ほとんどが略奪されたあとらしい」
 入り口の階に残る石像だけが、手を滑らせたかで破損してそのまま置き去りにされたようだ。いまはただひとつ、メリッサだけが感情のない瞳で、静かに過去を語るだけ。
「本は……あったのかしら」
「ああ。紙切れはそこら中に散乱しているからな。元にどれだけの価値があったかは知れないが、いまとなってはただのごみだ」
「…………ごみ」
 ふと、暗い瞳をしてウタがうつむいた。
 わずかに震えるらしい長い睫毛が、滑らかな頬に濃い影を落とす。
 恋は寄りかかっていた棚から離れ、さて、と『デボラ』を腰のホルスターに戻した。
「悪いが」
 そう言いつつ肩をすくめてみせると、ウタは少し寂しげな瞳で見上げてくる。
「……ええ。邪魔をしてごめんなさい。出て行くわね。ありがとう、楽しかったわ」
 にこ、と微笑んでウタは立ち上がり、ワンピースについてしまった埃を払った。そしてそのまま、歩き出す。
 ふわり、と軽く波打つ銀の髪が揺れて、すぐかたわらを通り過ぎた。
 その細い腕を、おい、と恋は掴んで引き止める。
 あきれるあまり、笑いが込み上げてきた。
 不思議そうに足を止めて振り返るウタに、笑みをこらえつつ首を横に振る。
「まさかシャドウが跋扈(ばっこ)する夜のフロストロイドを、その格好でひとり歩きするつもりか」
「そうよ。どうして?」
「人捜しだろう。あてはあるのか」
 捕まえたままそう訊ねると、ウタは首を傾げてしばらく黙った。そして急に、そうだわ、と言うと恋の腕を逆に両手で掴み返し、ぐい、と綺麗な瞳が輝く美しい顔を近付けて、
「あのね、キアラン・シンクレアというなまえなのだけど」
「知らない」
 言葉を遮りにべもなく答えると、う、と言葉をつまらせたウタはくちびるを歪め、涙目になって上目づかいに恋を睨んだ。
「父親か」
 意地の悪い笑みを浮かべて訊ねると、そんなかんじ、と拗ねながらもウタは答える。
「外に出るなら明日にしろよ」
 あくびをしつつそう言うと、恋はウタを置いてさっさと歩き出した。そして階を下りかけたところで、うつむいて立ち尽くしているウタを振り返り、
「はやく来い。眠いんだよ、俺は」
 え、と顔を上げて、ウタは首を傾げる。
「明日この近くでおまえの死体でも見付けてみろよ、寝覚めが悪いだろう」
「それは、寝起きが悪い、ってこと?」
「は? えーと……まあ……そういうこと、でいいか。だからつまり、明日は俺がおまえの行きたいところまで連れて行ってやる、ってことだ」
「ほんとう? レンが、連れて行ってくれるの?」
「悪いがこれは、タダじゃないぜ?」
 軽くウインクしてみせると、ウタは顔を輝かせて駆けてきた。
 ふわり、と甘い香りがひろがる。そして、
「ありがとう、レン!」
 ぎゅ、とそのまま抱きつかれて、少し気おされた。体重を預けられて階から踏み外しそうな足に力を入れつつ、念を押しておく。
「タダじゃないからな!」
 
 
  

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