無意味に重たく彫り飾られた石の建物の群れは、かび臭くよどんだ空気のなかに暗くたたずみ、縦横無尽にひろがる細い闇を迷路のようにつくりあげている。
 黒い染(し)みがついた半ば崩れた石壁に、ごみが散らかったままの割れた石畳。
 緑色の水が溜まったままの噴水は、綺麗な水を噴き上げるかわりに腐臭を散らしながら円形の広場のまんなかに座りつづける。
 がらくたをまたぎながらその広場に入ると、噴水を挟んで正面に、半壊した施設がある。
 崩れかけの階(きざはし)の途中で施設入り口をふさぐように横たわっているのは、もとはエントランスに飾られていたのだろう、半裸の女の石像だ。
 施設の名称はフロストロイド市立美術館。しかし顔を半分壊された石像以外の美術品はとうに盗まれ、なかに残るものは飾り棚や主の消えた台座、書物の切れ端といったものばかり。
「ただいまメリッサ。留守番ご苦労さん」
 メリッサ、と石像に声をかけつつ、長い足でそれをまたぎ館内へと踏み込む若い男の名は、恋(レン)・ローウェルといった。
 この元美術館を住処としている、シャドウブレイカーだ。
 館内に入ると散乱した紙切れの上を歩きつつ、鈍く痛むこめかみを指の腹で押す。思わぬ数のシャドウを祓ったために身体がだるく、さっさとぬるいシャワーを浴びて眠りたかった。
 鳥籠のように縦と横に金属の枠を半球状に張り巡らせ、そこにさまざまな色の硝子を填め込んだ天井。汚れたそこから落とされるくすんだ色の光に染まるエントランスを横切り、正面に置かれた、元は受付だったのだろう細長い台を身軽に飛び越えて、扉を開けた。
 左右に壊れた空の棚がある小部屋の床には、わざと硝子の破片をばらまいている。扉の横に立てかけている板を軽く蹴って奥の扉のそばにまで渡し、その上を汗に濡れた黄みの薄い金色の髪をかき上げつつもしっかりとした足取りで通って、渡り切るとまた板を立てかけ直した。
 あくびをしながら鉄製の扉を開けると、我ながら快適だと思える部屋が待っている。
 中央に、もらいものの小さな木のテーブルと椅子が一脚。
 しっかりと扉を閉めて、鍵をする。
 まずは黒く長いフェイクレザーのコートを脱いで椅子の背もたれにかけ、右腰と左腿のホルスターから使い込んだ銃を抜いた。そして、どさり、と椅子に腰かけ、コートのポケットから取り出した弾の残りを数えて、二挺の銃を整備する。しかし、
「……ダメだ。眠い」
 濃い青の瞳をとろんとさせてつぶやき、ホルスターをはずして黒い薄手のセーターを脱ぎ捨てた。
 白い肌の鍛えられて引き締まったその背には、怖ろしい傷痕が浮かび上がっている。
 右肩から左腰までを鋭く裂いた、痕。
 すっかりふさがっていて痛みはないが、他人がはじめてそれを見れば必ず悲鳴を上げるだろうほどに、その痕は凄まじいものだ。これだけの傷を負っておきながらよく命を落とさなかった、と鏡に映るそれを目にするたびに、恋自身も苦笑する。
 傷は五年前、はじめてシャドウと呼ばれる謎の獣を見たその時に、血を求める鋭く残忍な爪に裂かれてできたものだ。
 シャドウは、五年前突如としてこの町に現れ、人間を襲い始めた。
 どこからやってきたのかは知れない。
 爛々と輝く真紅の瞳以外は、闇の漆黒。
 そのふたつの共通点があるだけで、形状もひとつではない。生態どころか存在すらも謎に包まれた凶暴な獣は、教会に言わせると、忌まわしい魔術の副産物であり悪魔。だがその真偽も、さだかでない。
 とはいえ、恋たちシャドウブレイカーは教会から依頼を受けてシャドウを祓っているので、魔術がどうこうと教会が言えば、ああそう、と肩をすくめるだけだ。腹が膨れるだけの食事と清潔なベッド、冷たくないシャワーに雨風が入り込まない部屋を得ようと思うのなら、それが面倒な相手でも黙って従う。
 教会側は『殺す』という表現を嫌うために、『悪魔』であるシャドウの退治は『祓う』と表現する。祓ったシャドウの、到底生き物のものとも思えないような硝子球ほどの硬度がある赤い目玉を両方とも抉り出し、その数で報酬が決定されるのだから、やっていることは殺すも祓うもおなじことではあるのだが、教会とは清廉な顔をしたがるもの。いちいち面倒な連中だと思いもするが、しかしそれとて、シャドウブレイカーにとってはどうでも良いことだ。
 どうせシャドウがうろつく外で眠ることはできないのだ。自分の身を守るついでに、金をくれる者の身も守ってやっているだけ。
 シャドウブレイカーのうちでも、恋は特に教会から腕を認められた存在だった。この汚れた町で、シャドウの爪により死の淵に叩き込まれていながらもそこから這い出し、同業者のなかでも最も多い数の赤い目玉を差し出しているのだから、それも当然といえば当然。
 しかしだからといって、謎の獣シャドウが怖くないわけではなかった。
 背の傷を見て苦笑しても、赤い目玉をナイフでいくつも抉り出しても、痛まないはずの傷が微かに震える。つい先ほどのように五匹以上の群れに囲まれると、五年前の死の恐怖が、同様に脳裏に刻み込まれた痛みとともに蘇るのだ。
 左腿のホルスターのベルト部分に収めて持ち歩いている、柄に狼の彫刻が施された細身のナイフを二本とも抜く。そして黒のフェイクレザーパンツを脱ぎ、ナイフを持ってシャワールームに籠もった。ナイフだけでも常に手の届くところにないと、落ち着かない。
 ぬるい湯でこびりついたシャドウの血を洗い、傷の震えを洗い流す。
 そのあと、スポンジに手を伸ばし、丁寧にタイルを磨く。
 そうして排水溝の向こう側へと血の生臭さが消え去ると、タイルの上に座り込み、仰のいてシャワーを顔から浴びつつ、ようやく恋は深い溜息をひとつ吐いた。
 排水溝にできる渦が、どこかへと流れていく音。
 ゆるいシャワーが、タイルと肌を叩く音。
 耳にそれを聞きながら、白い湯気のなかに意識を揺らす。
 全身から力が抜け落ちるこのひとときはまるで、悪い夢のつづき。
 恋はしばらくそのままの状態でぼんやりと座り込んでいたが、やがてのろのろと立ち上がりシャワールームを出る。そして濡れたナイフをバスタオルで丁寧に拭ったあとで身体を拭い、青いセーターとジーンズを身に着けた。
 固いパンを齧り、グラスに注いだミネラルウォーターを飲み干したあとは、左腿用のホルスターに『ダレル』という呼び名のオートマチックタイプの銃を収め、ナイフとともに入り口そばの棚に片付ける。その後、『デボラ』と呼んでいるデザインと威力のバランスが良いリボルバータイプの銃は腰用のホルスターに収め、それを手に小さなキッチンの、その横にある扉からベッドルームへと向かった。
 『デボラ』のホルスターを枕もとに置いてベッドに倒れ込み、寝よう、と重い目蓋を閉じると、疲れた身体はすぐ、眠りの沼に沈んでいこうとする。
 だがその時、なにかが倒れる音がした。
 とっさに『デボラ』を抜き、ベッドから滑るようにして降りる。そして天井を睨んだ。
 
 階上に、なにかがいる。
 
 
  

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