不思議だと思ったのが、そこには音があったということだ。
 まるで女物の靴音のようなそれは、闇の奥から近付いてくると、わずかな月光に煌めく魚の鱗のような輝きをこぼす。
 ちらちらと、小さな明かりは水中に翻るように揺れて、雪のように降っては闇の底に積もった。
 降り積もる明かりはゆっくりと、しかし確実に、闇のなかに沈んだはずの形を蘇らせる。
 これが、闇と月光とが満ちる世界。魔道書『黯い魚の歌』の世界なのだろうか、とぼんやりと輪郭を取り戻しはじめた自分の手を眺めつつ、そう思う。
 しかし、やがてその微かな音が遠ざかると、不意に息苦しくなった。
 冷たく深い水底に落とされたかのように、身体の自由が利かない。
 どこか遠くに、別の音、誰かの声を聞いた。
 ちらつく、銀色の光。
 月光。それよりも鋭いような、それでいてやわらかいような、不思議な光だ。
 その光を見たとたんに、声は音量を増してこちらを揺さ振るように、響いた。
 
 

「って言うか……うるさい」
 思わず文句を吐いて閉じていた瞳を開けると、銀とピンクが視界になだれ込んでくる。
「っ!」
 思い切りこちらを潰してくれた相手の華奢な肩を、両腕を突っ張って離しながらよく見ると、銀とピンクの正体はウタだった。
 濃い青色の瞳を瞠ると、腕の先でウタが暴れる。
「恋っ! 恋が起きたわ! ねえ、アート! 恋がやっと瞳を開けたの!」
「お。起きたかよ。なーんだ。あと十分起きなかったら俺様がぶちゅーぅと一発チュウしてやったのに。もったいないことしたな、恋」
 アートのにやけ顔が、銀の長い髪とピンクの花びらのようなワンピースの裾を揺らして跳ねるウタの横から現れて、そう言った。
 ウタにしがみつかれながら無理やり半身を起こすと、身体のあちらこちらに痛みが走る。顔を歪めると、さらに、
「無理はするな。傷は治っていない」
「……あ? おっさん……?」
 さっぱりと髭を剃り落としたボブが、開けっ放しの扉の向こうから顔を覗かせた。
 見慣れたベッドルームと、気心の知れた顔。
 『黯い魚の歌』の一部となって消えたはずの身体は、こうして変わらない形でここに。
 これはいったいどういうことだ、とおかしな夢をみているかのような心地でぼんやりとしていると、首にしがみ付いたウタが微笑を寄越した。
「あのね、恋。キアランが来てくれたの。キアランがわたしを止めたのよ」
「……え? あいつが?」
「そうよ。口説かれ損ねた、とかなんとか言いながら、あのキアランが笑っていたわ。ねえ、それってなんのこと?」
「へえ……あの、キアラン・シンクレアがね」
 ふうん、とつぶやきながら軽く首を傾げた恋がゆっくりと瞬きをすると、ぐう、とやけに大きな音が聞こえた。アートだ。
「なあなあ、恋ちゃんよぉ。俺様すんごく腹が減ってんだけど、なんかねえ?」
「…………おまえ、帰れよ」
「キッチンの棚のなかにいくつか缶詰があったぞ。クラッカーの箱もある」
「おっさんも帰れ」
 そもそもなんでこの狭いところに集まっていやがる、と恋は深々と溜息をついた。
 しかし不平を言ったくちびるに、笑みが浮かぶ。だから、
「コーヒー……淹れるか?」
 くす、と笑ってそう言った。
 けれど、ふと、胸のなかのどこかが小さな音を立ててなぜか、痛んだらしい。それでも痛みを押してベッドから起き出そうとすると、そういえば、と銜え煙草のアートがわざとらしく言った。
「あのおまえにちょっぴりだけ似た馬鹿ガキだけどよぉ、おまえの呪いを解く対価だとかなんとか言って、あのおっかねぇおばさんに連れて行かれたぞ」
「……え? ダレル、は……生きているのか……?」
「おう。ジジイの銃の腕なんざそんなもんよ。俺様だったら確実に仕留めてたけどな」
「ダレルが生きて……そう、なのか。生きていたのか……」
 良かった、とそうつぶやくと胸のなかが、少しばかり軽くなった。
 生きていた。
 ダレルが、生きていてくれた。
 じわり、とその事実がゆっくりと温かく全身を満たしていく。
 失わずに済んだ。
 よかった、と口もとを笑ませてつぶやく。
 だがしばらくすると、ふと眉を寄せたくなった。
「いや。良かった……のか? あのキアラン・シンクレアに連れて行かれたって?」
 不安が過(よ)ぎって、思わずウタの顔を見る。すると、
「たぶんものすごく扱(こ)き使われると思うけど、でもきっとだいじょうぶ。キアランは悪いようにはしないわ。それに、あのネクロマンサーが言っていたの。ちゃんと生き直して暗い穴の夢を見なくなったら、恋に会いに行ってもいいかな、って」
「そう、か」
「恋。あなた、いま、とても優しい顔をしているわ。とっても綺麗」
 そう微笑むウタの言葉に、ふと耳が熱くなった。それを覚られまいと、余計なことを言うな、と睨むと、その照れ隠しには気付かない美しい銀色の瞳がたちまち潤んだ。
「酷いわ、恋。やっぱり冷たい……」
「コーヒー、淹れないとな。うんと苦いやつ」
 甘いのがいいと頬を膨らませるウタの腕を解き、笑いながらベッドから立った恋だったが、しかし、不意に飛び込んできた第五の襲撃者により、呆気なくベッドに逆戻りとなった。
 不意打ちの衝撃と身体の痛みとに息をつまらせながら、こちらを押し包むようなきつい香水の匂いとやわらかい感触に、内心うんざりと溜息をつく。
 襲撃者の正体を確認するまでもなく、甘ったるい声音が耳に注ぎ込まれた。
「ああん、恋ちゃぁん。久しぶりねぇ。良かったわ、無事で。あたし、とっても逢いたかったぁ」
「あっ、キャサリン! 恋はわたしのなのよ! 離れてちょうだい!」
 下着同然のキャミワンピースの下の豊かな乳房を恋に押し付けるキャサリンの腕を、ウタがキーキー騒いで引っ張る。
「あら、ちょっと離しなさいよ! 恋はあんたのじゃないでしょ! 言っておくけど、あたしの方が恋と濃密なカンケイなのよっ!」
「おいおい、キャサリン。恋の首が絞まってんだけど。かわりに俺様が特別に絞められてあげちゃうからさ。って言うか絞めてくれ」
「っさいわね、アート! あんたは引っ込んでなさいよ! これは女の戦いなのよっ!」
「え、そうなの? 戦い? どうしよう。わたし、もうずいぶん力を制限されちゃったのに」
 困ったわ、とつぶやくウタの言葉を聞いた恋は、アートと言い合いをはじめたキャサリンの下からすり抜けてベッドの端に座り、ウタの細い腕をぐいと引いた。
 そのまま引き寄せて銀の髪を掻きやり、白くなめらかな項(うなじ)を見る。
 しかし、そこに刺青のようにあったはずの魔法文字は、消えていた。
「封は、どこに行ったんだ。あの封は? 俺を助けてくれた封はどうした。消えたのか?」
 軽く瞳を瞠ってそう訊ねると、丁度息が触れるあたりにあったウタの耳が赤く染まったようだ。わずかに上擦った声音で、
「消えないわ。だいじょうぶよ、心配しないで」
「そうか。でも……なんであいつは、俺を何度も助けたりしたんだろう」
「あの封はね、『愛』という意味を持っていた文字なのよ。キアランがそう言っていたわ」
「愛……? へえ……意外。あの魔術師がそんな言葉、知っていたとはな」
「知っているわ。だってキアランはすごい魔術師だもの。きっと、誰よりも知ってる」
 へえ、と気のない返事をしながらも、今度こそほんとうに胸のなかが軽く、そしてあたたかくなるのを、恋は感じていた。
 なんどもこの身を助けてくれた、『愛』という意味を持つ封魔。
 なんとなく、くすぐったい。
 そう思いつつ、手指に銀の髪を絡ませる。
「それで? 封たちはどこに行ったんだ?」
「別の使用法があるから、ってキアランが連れて行ったのよ」
「別の使用法……あんまり良い予感がしないのは俺だけか? それに。おまえをこの状態で野放しにするなんて。なにを考えてるんだ、あの魔術師」
 ウタを放して恋が首を傾げると、どういうこと? とウタも同じ方向に首を傾げた。
「ずいぶん力を制限された、ってことは魔術兵器としての力のことだろう?」
「ええ、そうよ。もう町を一瞬で消し去ったりするような力はないの。せいぜい恋の銃と同じ程度の破壊力しかないわ。キアランが『黯い魚の歌』に記した『歌(チカラ)』のほとんどを封魔ごと削り取ってしまったのよ」
「そうするとやっぱり、封魔に封じられていない阿呆ップリ全開のおまえは、野放しかよ」
「アホップリ?」
「ほかになにか言っていたか?」
「キアラン? ええと……口説かれ損ねた?」
「それは聞いた。そのほかに。おまえについて」
「わたしのこと? そういえば、自分の好きなようにしろ、って言われたわ。子どもというものは、いつかは親離れをするものなんですって。それが大人になる儀式みたいなものだから、もうキアランをあてにしちゃダメなのよ」
 それを聞いて恋は思わず顔をしかめる。
 親だとか子どもだとかという話を、あの魔術師が言ったとは俄かには信じられなかった。しかし、それでも彼女に対するわだかまりが、少し晴れたような気もする。
 ウタのことを『たかが物』と言っていたキアラン・シンクレアが、ふたたびウタを破壊の魔道書という形で封じずに、彼女の力ごと封魔を取り去った説明がつくような気がするのだ。そして、『愛』という言葉をあの魔術師が誰よりも知っているというウタの言葉を、ほんの少しだけ信じられるような気もする。
 あの時、ゴーストガーデンで彼女を撃たずに済んで良かったのだ、と思えた。
 口ではああは言っていても、ほんとうのところは彼女、魔術師キアラン・シンクレアも母だったのだ、と。
 だがそれは、同時に、
「だからわたし、恋と一緒にいることにしたの」
「これは……体(てい)の良い、厄介払いか?」
「え? どういうこと?」
「別に。だが、一緒にいる、って言われてもな……教会を敵にまわしたいま、俺には他人の面倒を見てやるだけの経済力なんてものはないぜ。シャドウもいないし」
 しかしそう言って思わず恋が溜息をつくと、キッチンからボブの声が、
「その心配ならいらない」
 と言い切った。
 ぎゃあぎゃあと言い合うアートとキャサリンをかきわけるようにしてベッドルームから顔を出すと、もともとは彼の所有物であった狼の彫刻が施されたナイフを弄ぶボブが、視線だけでテーブルに恋を呼び付けた。
「もう一脚、椅子を増やしたらどうだ」
 恋を追いかけてきたウタを一瞥したボブは、そう文句を言いつつ怪我をしている恋に椅子を譲り、手にしていたナイフを寄越す。
「そんな金があるかよ。あんたへの支払いもあるのに」
 テーブルの上に置かれていたホルスターのひとつにナイフを収めて肩をすくめると、ボブの髭のない頬が微かな笑みに動いた。
「銃の代金ならばもう、ラボで受け取った。だからこうして、長年鬱陶しく思っていた髭をようやく剃ることができた。あれ以上におまえが支払う必要はない。それに。シャドウブレイカーが廃業でも、教会からは仕事が来るだろう。ごたごたは当分消えそうにないからな」
 そう言って、ボブがウタの頭を、ぽん、と叩く。するとウタは瞳を細めてくすくす笑った。
「そうかも知れないわ。キアランも恋のことを気に入っているみたいだもの」
「なんのことだよ」
「ネオ・フィオナだ。キアラン……いや、マルグリット・シンクレアは教会を乗っ取ったぞ」
 
 
  

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