祓ってやるから、と微笑みを向けて、ふらり、とウタのまえに、力の入らない膝をつく。
「聞こえるか、ウタ。あと……律も」
 ゆっくりと手を伸ばし、ウタの自由を封じる緑の帯に触れた。青い静電気のようなものが飛んで、指が弾き返される。それでも、魔封じを掴みにいった。
「禁書だろうが、破壊の魔道書だろうが、意思を持つ魔術兵器だろうがなんだろうが、そんなもんに興味はない。飯を食わせりゃそこら中汚しまくるわ。かと思えば、頼んでもいないのに清掃活動しやがるわ。こんな危なっかしい阿呆女を野放しにするのは、我慢ならないだけ。クラック入るような扱い方はしないし、こっちの骨にくるまえに、腕を鍛えればいいだけ。しっかり躾ければ、オーケー」
 ぐ、と火花を散らす緑の魔封じを無理やり引く。すると、そこにアートの手も加わった。
「なにがどうなってんだがさっぱりわからねえし、リツってのが誰なのかもそれもイマイチわからねえけどよ。俺様のキョーダイの腕も、ゲージュツだぜ? なんたって住み処がガラクタだらけとはいえ美術館だからよ!」
 火花を握り潰すように帯を掴んだ手が、焼けるように痛んだ。
 皮膚が裂けて、血の赤が帯の緑を汚す。
 悪態をつくものの、しかし、手は離さなかった。
 まるで、精巧な美しいだけの人形。
 その無機質な眠りは、見ているだけで寒気がする。
 目を覚ませ。
 暗い夢のなかにひとり漂いたくはないのなら、ただの物として飾られるのが嫌なら、このまま道具として終わるのが嫌なら、目を覚ませ。
「ウ、タっ!」
 瞳を、開けろ。
 その銀色に輝く瞳で、こちらを見ろ。
 そして笑えばいい。少し恥ずかしそうに、嬉しそうに、笑ってくれ。
 祈るように、傷だらけの手で帯を引いた。
 そして、
「……っ」
 バラ……と、不意に、ウタを縛めていた緑の魔封じが、解けた。
 あるはずのない鳥の羽音。
 それをどこか意識の向こうがわに聞きながら、なだれるように押し寄せる銀色を、恋は自身で裂いて傷付いた胸に受け止めた。
「起きろよ」
 滑らかな白い頬を傷付いた指でなぞるが、長い睫は伏せられ銀色の瞳を隠したまま。
 言いたい文句は瓦礫の山ほどある。言ってやりたいことは、それ以上に。
「恋ちゃんよ、俺様が教えてやろうか?」
 かたわらでへたり込んでいるアートが、にやり、と笑って言った。
「揺さ振っても起きねえお姫様ってのはな、案外キス一発で起きちゃうもんなんだぜ」
 アートらしくないようでアートらしいその提案に、恋は苦笑してみせようとするが、眩暈が酷くてうまくはできない。だから、そんなもので瞳を開けてくれるのなら、とふとその気になった。
「いい加減起きろよ、お姫様」
 そう、白い頬に指先で触れながら呼びかけ、これまでほかの誰にも与えたことがない、最も思いを込めたキスを、
 冷たいくせにやわらかく甘いくちびるに、落とした。
 『黯い魚の歌』という物にではなくウタというひとつの存在に、口移しで思いを伝える。
 そして、
 ゆっくりと、輝く銀の双眸が現れた。
「恋」
 くちびるを離すと、ピンク色のくちびるにまず、その名を呼ばれる。
 がらにもなく、身体が震えた。
 身体の奥底から溢れてくる愛しさに、暗い穴は満たされる。
 傷付いた手指の先までが、甘く。
「世話、焼かすなって」
「……ごめん、なさい」
 ふ、と微笑んでやると、金属を思わせる冷たい色の瞳はあっという間に潤み、ラボの白い電灯を跳ねてきらきら光る涙をこぼした。
 強く抱き締めてやると、自分の手で引き裂いた胸にウタの涙が染みる。
 その痛みさえもが、手放しがたかった。
 だが、その愛しい痛みごとウタの身体を離し、恋は強い瞳でまっすぐに銀の瞳を見つめ、
「ウタ。手伝ってくれ」
「…………え?」
 なに、と美しい瞳を瞠ったウタが、自分の力で上半身を起こす。それに、
「俺はシャドウブレイカーだ。集まったシャドウをこのままにして、倒れるわけにはいかない。だがいまはもう、シャドウを撃つための腕が上がらない。だからミュージアムプラザでやったように、おまえがシャドウを封魔に戻せ。俺のかわりにシャドウを祓って、文字に戻してやってくれ。俺ごと……祓ってくれ」
 そう言うと、ウタが悲鳴を上げるように名を呼んだ。けれど、恋はゆっくりと首を振る。
「ひとりにはしない。一緒にいてやる。シャドウを文字に戻したせいでおまえが魔道書の姿に戻るというなら、俺は表題として一緒にいる。だからもう、暴れるのはこれで最後」
 わかったか? と頬を軽く叩いてやると、ウタは駄々をこねる子供のように首を振った。
「おい……恋?」
 アートがいまにも泣き出しそうなようすで顔を歪めたが、微笑だけを返す。
「律は、消えたわけじゃない。この身体はもうすぐ、律のものになる。だからそのまえに、シャドウブレイカーとしてこの仕事を、全うしたい。手伝ってくれ」
 頼む、とただまっすぐに言うと、ふ、と美しい顔が悲しげに歪んだ。
「……真面目、なのね。そう言えばキャサリンも言っていたわ。そんな恋も、好きだって」
 そして、ウタは小さく微笑み、
「いいわ、わかったわ。恋は……シャドウブレイカーだもの」
「お、おい……どうするつもりだよ?」
「アートは離れて。シャドウを、フロストロイドから消すわ」
「いや、消すわ、ってそんな簡単に……なあ、おい。ちょっと、待てよ……」
「ごめんなさい。みんなわたしが悪いの。でも、アート……わたしに、恋をちょうだい」
 はっ、と息を飲んだアートにウタは立ち上がって背を向け、おとなしくしているシャドウの群れのまえに傷のある身体を引き摺り這うように移動した恋を、静かに見つめる。
「恋。わたし、恋が大好き」
「……ああ。わかってる」
 自分でも驚くほど、甘い声音。
 涙をこぼすウタの両の手が、ゆっくりと開かれてこちらへと向けられるのも、ひどく穏やかな気持ちで見ていた。
 すう、と銀色の双眸が深く澄む。
 風もないのに、ゆるやかに長い髪が揺れた。
 シャドウの、ウタの、
 『黯い魚の歌』の歌声が、長く響く。
 そして、
「『封魔の獣よ。我に従い、闇と月光とが満ちる異次元へと還るが良い』」
 視界が、
 闇と銀の光とに、埋め尽くされる。
 
 シャドウブレイク、完了。
 
 笑みながらつぶやいて、落ちていくその世界のなかに、恋はそのまま意識を手放した。
  

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