床の血溜まりのなかに落ちる、赤い飛沫。
 それはあまりに、ゆっくりと見えた。
 小さく赤い冠が血の海にいくつも浮かんでは消えて、やがてその上に弾丸に貫かれた身体が落ちてくる。
 光る、赤く濡れた硝子の破片。
「それは、困りますね」
 ゆっくりと音を遠ざける耳がわずかに、かすれた声を聞き取った。
「ようやく手に入れた『黯い魚の歌』を、そう簡単に手放すわけにはいかないのですよ。それはもともと私のもの。私のための、『力』なのですから」
 振り返るとそこには、銃を手に歪んだ笑みを浮かべるオズワルド司教の姿が。
 その足もとに、ボブが倒れていた。
「おっさんっ!」
 これはたぶん、アートの叫ぶ声だ。
 
『殺ス』
 
 ほかに音のない闇のなかで、低く、律が唸った。
 涼やかなウタの顔で、ちろり、と赤い舌が唇を舐める。するとそこに、鋭く長い牙が現れた。
 ゆっくりとこちらに向かってしなやかに伸ばされた白い手指が、闇の色に包まれる。
 そして、
『殺シテヤル。今度コソ』
 間近から浴びた真紅の血が、音もなくじわじわと闇に侵食し、
『此処カラ出セッ!』
 黒い毛皮を突き破るようにして現れたその凶悪な爪は、乱暴に意識を、
 
 引き裂いた。
 
 

「アアアアアァァッ!」
 突然の絶叫に、自分の身体を抱えるように苦しみだした幼馴染みに駆け寄ろうとしていたアートは、とっさにうしろに跳んだ。直後、先ほどまで立っていた部分の床が深く抉られ、ごくり、と息を飲む。
 鋭い爪が床を抉り引き裂く、酷い音。
 なにかを振り払おうとした恋の上に、黒い影が覆いかぶさっていた。
 爪は、恋の伸ばされた右手から伸び、そこから床に食い込んでいるのだ。
「恋っ!」
 耳をふさぎたくなるような音と絶叫のなかで呼ぶが、がくがくと不自然に身体を震わせる恋の耳には入らないようだ。
 恋は濃さを増す影の重なる左手を伸ばし、シャドウブレイカーから集められた赤い目玉が入れられた瓶を、それを並べた台ごと薙ぎ倒す。
 とたんに、シャドウたちが低く長く唸り出した。
 鼻に皺を寄せ、牙を剥き出して、アートを映す真紅の瞳を爛々と光らせる。
 そして、司教オズワルドの哄笑が響いた。
「これはどういうことでしょう。人を食い破り金の題字を持つシャドウが現れるとは!」
「なに言ってやがるあのジジイッ! くそっ! おい、どうしたんだ恋っ! 恋……っ?」
 不意に叫び声をぴたりと止めた恋が、ゆっくりとアートに血の気の引いた顔を向ける。
 その、濃い青色であるはずの双眸が、血の色に染まっていた。
 シャドウの瞳と同じ、真紅。
 ただその芯がほかのシャドウとは違う、金。
「冗談、だろ?」
 アートがあとずさって、首を振った。
 恋が苦しめば苦しむほど影は濃く大きくなっていき、そのうちにアートにも見覚えのある、四肢の長い、他よりも大きな最も凶悪なシャドウの輪郭がはっきりと見えはじめる。
「おまえが殺せって言ってたシャドウって、やっぱり……おまえのことなのかよ。恋」
 幽霊銀行(ゴーストバンク)のまえで、おかしなことを。
 一緒に来てくれると心強いけどそばにいられると困る、と。
 さっきも、そう。
 俺がボブとアートを襲うようなことがあったらちゃんと殺してくれ、と。
 苦しげに唸る恋は、震えながら自分の胸を掻きむしった。コートと黒い薄手のセーターが、鋭い爪に裂かれて、血が滲む。
 自分を傷付ける恋をすぐにでも止めたいのに、シャドウの群れに囲まれたアートの足は凍り付いて動かなかった。
 
 少しも、迷うな。
 
 耳に蘇るのは、恋の言葉だ。
 けれど、
 ふざけんな、と食い縛った歯の隙間から声を押し出したアートは、握り締めた銃を下ろす。
「俺が、おまえを撃てるかよっ!」
 しかしそこに冷えた声音を、浴びせられた。
「いいえ。『祓って』もらわなくては困るのですよ。それは魔道書『黯い魚の歌』の表題。もっとも重要な、なまえ。あの赤くて綺麗な目玉を刳(く)り貫いてもらわないと、私がゆっくりと破壊の書が読めませんからね。わざわざ、残りの文字があちらから現れてくれたのです。これほどの機会は二度とない!」
 そう叫んだ司教オズワルドが、つぎに聞きなれない言葉をすばやく紡ぐ。すると、バタン、とシャドウによって開かれていた扉がひとりでに元の位置に戻り、さらには勢い良く閉まった。扉近くのシャドウが体当たりをするが、魔術により固く閉ざされた扉はびくともしない。
 シャドウごと、閉じ込められてしまったのだ。
「なん、だよ。どうするつもりだよ!」
「もちろん。することは決まっていますよ、アート。きみはシャドウブレイカーのはず」
「……な、に」
「きみの仕事をしろ、と言っているのですよ。銃を拾って、ここに集まったシャドウを祓いなさい。いままで散々してきたことでしょう。そこにいるのはシャドウですよ。いまさらなにを迷うのです。祓わなければ、君も食い殺される。さあ、迷うことはありません。祓うのです!」
「ふざ、けんなっ!」
「ふざけてなどいませんよ。しかし……きみがどうしても、かつてのお友だちを祓うことができないと、言い張るのならば」
 彼は私が祓いましょうか、と言うなり、司教オズワルドは床の上で苦しむ恋に向かって引き金を引いた。
 そして、
「っ!」
 乾いた銃声がいくつもの唸り声の上がるラボに鋭く響いた直後、どさり、と黒い獣が、銃弾に倒れた。
 飛び散った赤が、恋の血の気の失われた頬に。
「あ……あいつ……っ!」
 黒く太い前足が宙を掻き、ぐい、と傷付いた身体を床から起こした。恋と行動を共にしていたシャドウが、首のあたりから血を流しながらも、ふたたび恋を庇い守るように立ち上がる。
 一層強く湧き起こるシャドウたちの凄まじい怒りの唸り声に、身体が恐怖に竦んでしまいそうだった。
 しかしアートは、司教オズワルドに真紅の敵意を向ける群れのただなかで、覚悟を決める。すい、と腕を上げると、目のまえにいるほんとうの敵へと、銃口を向けた。
「おや、アート。どういうつもりでしょう。司教である私に銃を向けるなんて。まさかきみも、人を食い殺すシャドウの仲間ですか?」
「うるせえなジジイ! もうなにがなんだかわかんねえんだよ!」
 吐き捨てるように言い放ち、迷いを、注がれる司教の言葉ごと、頭を振って追い払った。
 そして、背後に倒れる恋を振り向かないまま、
「……恋。おまえが死体使いの馬鹿ガキを撃てなかったように、俺だってやっぱりおまえは撃てねえよ。血なんかつながってなくっても、俺はおまえの兄ちゃんだろ? おまえがシャドウになっちまっても、それは変わらねえよ。ちょっと毛深くなって黒くなって、目ん玉が赤くなるだけだろ。平気だって。なあ、聞こえてるかよ、恋」
 そう言って、顔を歪める。
「目付きと態度が悪いのも凶暴なのも元からだし、ぜんっぜん問題なし! おまえがシャドウと仲良くできたんだから、俺様だって仲良くできるって。しかもしっかり躾けちゃうぜ。なんたって俺様はゲージュツだからなっ!」
「……愚かですね。シャドウなどと仲良くできるはずがないというのに。おまえのうしろにいるのは、人を食い殺す凶悪なシャドウであって、おまえの仲間などではありませんよ」
 ほら、ごらんなさい。おまえのうしろにいるのは、なんですか。
 そう言って薄く笑う老人の声音が、冷酷な響きをもって教えて寄越した。
 途端に、ひやり、と背筋が冷たくなる。
 一瞬止まったように思えた自分の鼓動が、つぎの瞬間には、逃げろ、と急かすように急激に速まった。しかし恐怖に凍り付いた身体は動かず、かわりに冷たい汗が全身から噴き出す。
 後頭部。
 そこに、冷たく硬いものが、殺気とともに押し当てられている。
 銃口だ。
  

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