ふと暗闇で、甘く囁く声があった。
 喉をやわらかく締め上げられながら、身体の内側にそれを聞く。
 
『はやくボクにちょうだいよ』
 
「だ、れ……?」
 
『ボクにはまだすることがあるんだよ。役目を果たさないと』
 
 闇のなかに浮かび上がる、ふたつの真紅の玉。
 ゆっくりと歩み出したのは、四肢の長い、悪魔のようなシャドウ。
 『黯い魚の歌』の金の表題、『律』だ。
 
『こんなやつに邪魔されるなんて、ボクは嫌。だから、ちょうだい』
 
 おまえの意識と身体を、命をちょうだい。
 ぐい、と闇にできた歪(ひず)みから鋭く光る爪が伸びて、抉じ開けようとする。
 それでも、駄目だ、と首を振ると、するり、と纏わりつくものを脱ぎ捨てるように、闇のなかから青白いほどに白くやわらかな肌が現れた。しなやかな腕が絡みつくように捕らえにくる。
 
『ねえ、はやく。抵抗しないで、食べられてよ』
 
「……ふ……っ」
 
『おまえが僕の血肉を壊したあの時は、まだみんな集まってはいなかった。集まっていないのに、僕が先に表題に戻るわけにはいかないでしょ。でもね、いまは彼女がここにある』
 
 にこ、と間近で銀の髪を揺らしつつ微笑むその楚々とした容貌は、彼女のもの。
 くすくす、と鈴を転がすような笑みを、ピンク色のくちびるから零す。
「ウ……タ……」
 
『そう、歌だよ。この汚れた世界を粉々に壊す、歌(チカラ)。ねえ、時は満ちたんだ。はやく彼女のところに行かなきゃ。ここに集められる。もうすぐ残りのみんなもやってくるよ。だから、ねえ』
 
 ウタの貌。
 ウタの声音で。
 甘く囁いて、すべてを奪おうと手指を伸ばして誘う。
 けれど唯一その双眸だけが、違った。それはどこか寂しげに見える、磨いた刃の銀色ではなく。
 その、細められた真紅のなか、金色が閃いた。
 
『その死人(しびと)。おまえが殺されるまえに、壊したいんだよ!』
 
 だから、食われろ。
「ぐ……ぅっ!」
 闇から生まれた真紅のなかでそう叫んだ金色が燃え盛り、鋭い爪をさらにやわらかい肉に抉るように突き立てた。
 背中の傷。
 そこから身体が、裂けてしまう。
 そう思った。
「…………っ!」
 しかしその時、
「恋」
 不意に身体が放り出され、床に転がる。ふさがれていた喉が解放され一気に呼吸が戻ったせいで、激しく咳き込んだ。
 その頬を黒い獣毛がかすめ、すぐそばに獣の低い唸り声を聞く。
 はっ、と顔を上げると、前足の太いシャドウが母のまえで首を激しく振っていた。
 青白い腕が食い千切られ、片腕を失った虚ろな瞳の母はふらりと後退する。
「恋は、死にたいか?」
 不意に、恋、と食い千切った腕を牙鋭い口から吐き出したシャドウに呼ばれて、ゆっくりと瞠目した。
「封はどうする。先刻の命令を実行するか。それとも別の命令を実行するか」
 そう訊ねられて、恋は濃いブルーの瞳で母を見つめた。そして、強く押さえ付けられた痕があるだろう喉に、ゆっくりと手を伸ばす。
 悪い夢だ。
 死んだデボラに殺されてやって、それでデボラの失くしたものが埋まるはずなどない。自分の胸のなかが埋まるはずも、ない。
 もう、終わらせなくてはならない。いまは悪夢を見ている時ではないのだ。
 喉から離した手を伸ばし、ぐ、と床に落としてしまっていた『デボラ』を握り締める。
「動く死体は頭を潰す」
 シャドウに言われて、静かに恋はうなずいた。
「……そう、だな。もう、終わりにしよう」
 立ち上がり、まっすぐに『デボラ』を手にした右腕を、デボラに向かって伸ばす。
「おまえたちは、さっき俺が言ったことを実行してくれ」
 片方の腕を伸ばしてゆらゆらとふたたび迫る母の眉間に、揺るぎない銃口を突き付けた。
「……愛してるよ、母さん」
 もう、ゆっくり眠って。
 そう祈るように引き金を、引いた。
 銃声のあと、ゆっくりとうしろに倒れていく、母の身体。
 血などは、流れない。ただ、かつては美しかった金の髪が波打ち、宙を流れていく。
 ぐしゃり、と冷たい床の上で音を立てて夢が潰れ、そして、そのままぴくりとも動かなくなった。
 『デボラ』を持つ手を下ろし、恋は母の亡骸のかたわらに膝をつく。
 そのうしろに、す、とシャドウが従った。
 母の開いたままのブルーに手を当てて瞳を閉じさせてやろうとするのに、もはや氷のような目蓋は閉じず、冷たく乾いた虚ろな眼差しはただ暗い天井を映す。
 変わり果てた、姿。
 それでも愛しい頬を、そっと右手で撫でた。
「……俺、行くから。ここに、今度は俺が母さんを置いていくけど、恨まないでね」
 母にむかって無理に微笑してみせ、恋は背後のシャドウを振り返る。
 左手を伸ばして頭のあたりをそっと撫でてやると、まるで穏やかな犬のように、シャドウは真紅の瞳を閉じた。
「なんで、恋、って呼んでくれたんだ」
 訊ねると、シャドウは軽く首を傾げる。少し考えるらしく間を空け、そして、
「封は、恋が気に入っている」
 と答えた。それを聞いて恋が微笑むと、真紅の瞳はやわらかく細められる。
「デボラの頭を潰さないでくれて……俺のなまえを呼んでくれて……ありがとう」
 おかげで、自分の手で母の苦しみを終わらせてやることができた。
 捕らわれかけた夢から、伸ばされた闇の爪から、逃れることができた。
 律は、もう少しで外に出られるというところを押し込められて、きっとこの腹の底で歯噛みをしていることだろう。けれど、負けるものか。
 負けはしない、と立ち上がった。
 いますべきことを、する。
「ネクロマンサーとかいう変態野郎をぶちのめして、きっちりウタを助けてやる」
 そして、先の見えない薄闇に銃口を向けた。
 
 

 一方、円を描く廊下を左に曲がったアートとボブは、そこに待ち受けていた多くの蠢く死体を全て片付け、最奥の扉のまえにたどり着いていた。
「恋、先に行ったかな? ようす見に行ったほうがいいかなー」
 弾を補充しつつアートは来た方とは反対の廊下を覗くが、そこに恋の姿は見えなかった。
 さすがに乱れる息を整えながら、扉の横の壁にもたれかかる。
「三分待つ。来ないなら、俺たちだけで行く」
 ボブの言葉にうなずき、銃を恋が行った方の廊下に向けながら、アートは腕時計を見、
「ひとつ質問。そこのスペースって、なに?」
 廊下に囲まれた円柱形の壁を顎で示すと、この下がラボだ、と返事があった。
「うげ。まぁだ、下があんの? 穴掘りすぎだぜ、教会。どっかのおっかないおばさん並み」
「静かにしろ。なにか来る」
 恋か、と一瞬安堵して銃を下ろしかけたアートだったが、廊下の向こうから現れたものたちに、ふたたび銃口を向け直して舌打ちする。
「なんであっちからぞろぞろ死体が来るんだよ! 恋はどうしたっ?」
 なにがあった、と焦りつつ引き金を引こうとしたその時、思わず肌を粟立たせて身震いしたくなるほどの凄まじい唸り声が、薄暗い廊下の向こうから上がった。
 思わず取り落としかけた銃をアートが構え直すまえに、奥からつぎつぎと、動く死体が闇の化身になぎ倒されていく。そのようすを半ば凍りついたように眺めていると、やがて、恋と共に行ったシャドウが現れた。
 ぐしゃり、と床に転がった腐った頭部をその太い前足で踏み付けつつ、悠々と歩いてくる赤い瞳の黒い獣をまえに、背を扉に張り付けたアートは頬を引きつらせる。
「うわぁ、おっきなわんこ……には、やっぱ見えないぜ、俺様。ひゃ〜、こっち見たぜ」
「恋はどうした」
「うわ、このヒト普通に話しかけてるよ。あんたももうマトモな神経ヤラレちゃったんだね、かわいそうに」
 ボブに、恋は、と訊ねられたシャドウは、軽く鼻を動かしふたりの匂いを確認したあと、ちらり、と外側の壁を赤い瞳で見やる。そして顎を上げて上を向き、地を這うような低音で長く唸りはじめた。
「こいつ、仲間を呼んでやがるぜ」
 シャドウブレイカーとしての知識の通り、その長い唸り声に答えるようなシャドウの鳴き声が、そう離れてはいないところからいくつも湧き上がる。
「くそ! 恋のヤツシャドウの餌になってねえだろうな!」
 どうする、と嫌な汗をかきながらとなりに向かった訊ねた。だが、
「恋なら無事だ」
 ボブは赤い瞳が見る方を見つつ、言いきる。
「なんだよ。あんたまでシャドウとお喋りできちゃうわけじゃねえだろうな?」
「安心しろ。俺にも会話は無理だ。だが、身に着けている物をなにかひとつ、ここに置いていった方が良さそうなことはわかるぞ」
 あとから来るシャドウにも匂いを覚えさせる、と言われて、アートは緑色のマフラーをするりと取ってシャドウのまえに置き、
「頼むからぐちゃぐちゃにしてくれんなよ。俺様のお気に入りなんだぞ、そのマフラー」
 ボブは左手にしていたフェイクレザーの手袋を、シャドウに差し出した。そして、
「行くぞ」
 顔を見合わせ、頷き合う。
  

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