「恋。おまえは、だいじょうぶか?」
 なにかに気付いたらしいボブに声をかけられて、恋は肩をすくめる。
「もしも……俺があんたとアートを襲うようなことがあったら、ちゃんと殺してくれるか?」
 小さく笑うと、
「おまえ、なに言ってんだよ?」
 ボブを押しのけ間に割って入ったアートが、不吉な匂いを感じ取ったのか顔を強張らせた。
「…………ああ、わかった」
「なんなんだよ! なにがわかったって?」
 乱暴にボブの胸倉を掴んだアートの手に、そっと手を重ねて、恋は首を横に振った。
「アート、頼む。覚えてるよな。左耳に穴の開いたシャドウ。あれとおなじ形状のやつが、もし襲い掛かってきたら、おまえが怪我をするまえに、殺せ。少しも、迷うな」
「なんだよソレ……冗談、だろ?」
 怒ったような顔に、微かに震える声音。
 向けられるそれに、にこ、と笑って、恋はふたりから離れる。
 そして前足の太いシャドウを連れ、あとは振り返らないままに左右に分かれてひとつの円を描く廊下を、右に曲がった。
 アートがなにかを喚いていたが、聞こえないふりをする。
「律。悲しいか」
 不意にかたわらを走るシャドウに訊ねられ、まあね、と答えた。
「でも、それよりも。まずこっちの方が問題」
 こっちを片付ける方が先、とゆるりとしたカーブの外側をまわった先に現れた動く死人に、ぴたり、と素早く銃口を向ける恋だったが、
「っ! う、そ……だろ」
 『デボラ』を持つ右手が、震えた。
 ふら、とあとずさって壁にぶつかり、そのまま崩れるように床に、座り込む。
 シャドウが鋭い牙を剥き、迫り来る死人に飛びかかろうとした。だが、
「やめ、ろ」
「律?」
「…………デボ、ラ……?」
 冷えた頬を、不意に溢れた涙が滑り落ちる。
 
 いまもどこかで生きていてくれているはず。
 そう思っていた。そう思っていたかった。
 けれどそこに、
 母の姿が、あった。
 
 虚ろに宙を漂う、ブルーの瞳。
 なにかを探す、細過ぎる青白い両腕。
 かつてネオンサインに照らされ輝いていた金の髪はくすんで、だらり、と肩に。
 胸のまんなかに刃物で抉られたような、痕。
 
 これは……悪い、夢。
 
「嘘、だ」
 ゆっくりと歩み寄ってくる母を、震える両手で頭を抱えながら見上げた。
「あ……よ、せ……っ」
 悪夢を振り払うように、首を振る。
 けれどどこからが、夢だ。
 いつからそこに、迷い込んでいた。
 身体が震えて、息ができない。
 
 要らないから捨てたんだろう?
 だからいくら待っても、迎えに来てくれなかったんだろう?
 生きるために、捨てたんだろう?
 それなのに、どうしていま、迎えにくるの?
 そんなふうに、とうに失くした名前で呼ばないでくれ。身体が、動かない。
 そんなふうに、抱き締めようとしないでよ。その腕で、俺を捨てたはず。
 どれだけ寒くて寂しかったか、知ってる?
 どんな思いで伸ばしたい手を我慢して膝を抱えたか、わかってる?
 マンホールの下から、まるく切り取られた灰色の空を眺めて、ずっと待ってたんだ。
 
「……デボ、ラ」
 
 ねえ。
 俺がいなくなって、少しは寂しかった?
 俺を捨てて、少しは胸が痛んだ?
 もしも、その抉られた胸のまんなかを埋めるのに、俺を探してくれていたのなら、
「……だった、ら……デボラが失くした命を、俺が……」
 
 そして、
 冷たい腕に捕らわれて、歪みが、できる。
 
『要らないならもう、ちょうだい』
 
  

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