魔術師の部屋からフロストロイドのどこかへと繋がる、薄暗く長い地下通路。
「俺様そろそろモグラちゃんになったかも」
 背後でぶつくさ文句を言うアートの声を聞きつつ、
「あんたはなんで重い腰を上げたんだ」
 面倒事は嫌いなんだろう、と恋は先を歩くボブに訊ねた。すると、ふと歩調を落としたボブがこちらを振り返らないままで言う。
「……客が、殺されたからな」
「客?」
 首を傾げると、アートが続けた。
「『フォースター』のローズが、今朝死体で見付かったらしいぜ。キャサリンに聞いた。で、おっさんとこにキャサリンとふたりして逃げ込んだ」
「…………キャサリンは?」
「おっさんが安全だっていうところ」
「そう、か」
「……恋? おまえ、ほんとにだいじょうぶかよ」
「気にするな、とは言わないが……気にしすぎるなよ、恋。瞳が曇ると、狙いは定まらない。銃口を向ける先は、自分の頭じゃない。アート、おまえもだ」
 師匠に言われて、オーケー、と弟子ふたりがうなずく。だがふと恋は顔を上げ、薄闇をずんずん進んでいくボブの背を眺めた。そして、
「あんたも、ね」
 ボブが立ち止まり、ゆっくりと肩越しに振り向く。ほんの少し、髭が動いた。
「でも、まあ……ローズのあとを追いかけたいなら、先にそう言っといて。あんたが撃たれても、俺たちあんたを放ってさっさと逃げるから」
 軽く肩をすくめてみせると、ぎろり、と睨まれる。髭の下から地を這うような低い声が、
「その時は俺がおまえらを撃ってやる」
「オーケー。しかたないな。助けてやるよ」
 そう言って、くす、と笑うと、ボブはライトグリーンの瞳を細めてまた歩きはじめた。
「で、これってどこまで続いてんの? まさかスピネルドームに直通?」
「その南側までだ。さすがにマルグリット……いや、キアランもスピネルドームにはそれ以上近付きたくはなかったようだ」
 きょとん、と瞳をまるくしたアートは、少し歩調を速めて恋に追いつくと、あのおばさんがキアランだったのか、とこっそり訊ねてくる。
「ああ。『極めて強力な魔術師』だそうだ」
「まぁじゅつしぃぃっ? なんじゃそりゃ?」
 アートは、ボブからなにも聞かされていないようだ。なにも知らないままだというのに、それでもついてきてくれるという。
「アート……あのさ」
「ごめんねお兄様、も、ありがとお兄様、も、なにがどうなってんのかも、そりゃまああとでかまわねえよ。きっちり帰ったらばっちり話せよ、恋。それと、忘れんな。俺様のガードはめっちゃくちゃ高いんだからな!」
「……ああ。覚えておく」
 にこ、と笑いかけると、にやり、とアートは歯を見せて笑い返してきた。それから不意に気付いたような顔になり、
「それよりさぁ、教会ってなにを信仰してんの? あの美人ちゃんを攫ってどうすんだ? アレか? いやらしいことしちゃうのか?」
「…………違う、だろ。たぶん」
 アートとさほど変わらない程度しか教会を知らない恋が首をひねると、ボブが口を開く。
「フィオナという名の古い女神を信仰していることくらいは、おまえたちでも知っているだろう。こんな俺でも昔は……いつかその女神がこの町を救ってくれるんじゃないか、とちらりと信じてみたものだ。無駄だったがな。銀の娘を教会の連中が攫った理由は、その娘を生きたフィオナにするためだ。だが残念ながら、銀の娘には町を救う力はない。いや」
 いや、とわずかな沈黙のあとに、ボブは暗い瞳を静かに闇の向こうへと据えた。
「考えようによっては、やつらにとってあれは、再生の力なのかも知れないな」
 再生のための、破壊の力。
 いまここにあるすべてを無に帰し、教会にとって都合の良いものがそこから新しく誕生するのならば、破壊は再生と言えるのだろう。そうして破壊の魔道書『黯い魚の歌』は、フロストロイドの女神フィオナとして生まれ変わる。
 しかし、
「ウタは道具じゃない。兵器でも女神でもない。ただの……ウタだ」
 だからスピネルドームに行く。
 濃い青の瞳でまっすぐに闇のむこうを見据えて、恋は言う。
 それを聞いたボブが、そうか、とかすかに笑むらしい。アートは少し呆れたように肩をすくめて見せたものの、からかってくるようなことはしなかった。
 それからは無言で長い地下通路を歩き続けた三人は、やがてマンホールの重い蓋を押し開け、なにを含んでいるか知れない雨に濡れた地上に這い出す。
 細い路地のむこうに、セリーヌ大聖堂、通称スピネルドームの半球状の赤い屋根が見えた。
 その屋根の上、黒く厚い雲に覆われた陰鬱な空に明日を閉ざされるようで、雨に濡れて白さを増した冷たい肌に爪を立てる。
 激しく瓦礫を叩く雨音は、身体のなかで鳴る鼓動以外の雑音をかき消す。その音すらも、明日は失われているかも知れない。
 がらくただらけの暗くて寒いこの町も、スピネルドームただひとつを残して、明日には失われているかも知れない。
 けれど、
「寒ぃな」
 ふとすぐそばで聞こえた声に目をやると、アートが震えながら白い息を吐く。そのむこうで、ボブが静かに赤い屋根を睨んでいる。
 たぶん、あの暗い穴のなかにいたのがどちらかひとりだけだったなら、とうにこの町に巣食う闇に身も心も食い殺されていた。
 たぶん、あの暗い穴に子どもふたりだけだったなら、とうにこの町に突如として現れた闇に食い殺されていた。
 こんな町でも失えない。失えないものが、ここにはある。
 そしてこの町を失えば、ただの物となってしまう者がある。
「……意思を失えば、フィオナとおなじただの石だ。ウタを、フィオナになんてするかよ」
 そんなものになることを、ウタは望んでなどいない。
 ウタが探していたものは、欲しているものは、そんなものではない。
「ああ。ウタちゃん、あそこでおまえを待ってるぜ、恋。あ〜、俺様も人肌恋しいカンジ。っつーか、寒くってそろそろ鼻から水が出そう。で? どうやってスピネルドームの地下なんかに入るよ。俺様たち教会に目ぇ付けられたりしてんだろ。フツウには入れねえよな」
「教会の裏側を知っているのは大司祭以上のお歴々だ。それ以下はなにも知らない」
「つまり、汚れも知らない優しい修道女をたぶらかせ、ってことか?」
「その手で行くなら、恋。うまくやれ」
「ふざけるなよ、おっさん。そもそも修道女がそのへんをふらふら出歩くものか」
「んじゃさ、汚れない修道女に善良な心が痛んじゃうんならよ、ほれ。アレはどう?」
 あのなんとなぁく汚れた感じのおっさん、とそう言ってアートが指差した先には、以前に恋が鼻を折ってやった腹の出た司祭。点いたり消えたりを繰り返す街灯の下、こちらには気付かずにスピネルドームに向かっているその姿を見るなり、恋は肌を粟立たせた。
  

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