綺麗で優しい、デボラ。
 白くてやわらかい腕に抱かれていると、そこがどんなに暗くてじめじめした場所でも、自分は誰よりも幸せだと思えた。
 甘くて心地の良い声音で呼ばれると、彼女からどんな男の匂いがしたとしても、自分は誰よりも愛されていると思えた。
 泥水を啜ろうと、残飯を漁ろうと。
 デボラがいてくれるだけで、とても満ち足りていた。幸せだった。
 
「……いまでも、愛していると」
 
 そう思って、いたのに。
 暗い、暗いマンホール。
 いつか迎えに来てくれるのではないか、とそう思っていた。
 待っていたのに、
 
 いつまで待っても、母は来なかった。

「恋っ!」
 名を呼ばれて、はっ、とそちらを見ると、不意に現れたアートに銃を持つ左手を素早く掴まれる。わけがわからないまま息を切らせる幼馴染みを見上げていると、そこにボブまでもが現れた。
 ボブは冷ややかに嗤う女に近付き、
「俺の弟子で遊ぶのはやめてもらおうか」
「かわいいぼうやとのお楽しみを邪魔するとは、相変わらず無粋な男だ。それにしても珍しいな、おまえがここに来るとは。だが、こうも招いてもいないのにつぎつぎに押しかけられては、迷惑だ」
「俺も迷惑をしている。おまえには二度と関わるものか、と思っていた」
 そう言って、ボブはゆっくりと恋を振り返る。そして深々と溜息を吐き出した。
「この件には深く関わるな、と言っただろう」
 呆れられ、恋は無言で空いている右手で、濡れた頬をこする。それから左腕をアートから取り戻し、銃をホルスターに戻した。
「おい、だいじょうぶか? おまえまた顔色悪ぃぞ?」
 アートに顔をのぞかれて、無理やり肩をすくめてみせる。
「問題ない。ただ……シャドウの親玉を殺しそこなっただけだ」
「親玉っ?」
 どういうことだ、とアートが派手に驚いて、椅子の上で紫煙をくゆらせる女を見つめた。
「あいわらず嫌われるのが得意のようだな、マルグリット。いつか撃たれて命を落とすぞ」
 ボブに言われて、魔術師キアラン・シンクレアは煙を吐きつつ低く嗤う。
「撃っても当たらなければ意味はないさ。それはおまえもよく知っているだろうに」
「あ? なに、知り合い? おっさんの昔の女?」
 ふたりの会話を聞いて瞳をまるくしたアートに、昔の恋人か、と訊かれて、ガンスミスと魔術師は、不愉快なことを言うな、と即座に声をそろえて否定した。
「冗談ではないぞ、こんな金属にしか興味のないような趣味の悪い男」
「俺だってごめんだ、こんな魔術にしか興味のないような危ない女」
 しかしそこで、
「……いいところに来てくれたよ、師匠」
 つぶやくように恋が言うと、放っておけばこのまま激しく言い合いそうな雰囲気だったふたりは不穏に冷えたその声音に、ぴたりと黙る。アートはアートで、片手で顔を覆うと、あ〜あ、と暗く高い天井を仰いだ。
「師匠。ラボの場所、教えてくれる?」
 にこ、とくちびるだけで笑うと、普段はあまり動かないボブの頬がわずかに引きつるよう。
「はやいとこ教えた方がいいよ? 静か〜に怒ってる時がいっちばん怖いから、コイツ」
 アートが真剣な顔で追い打ちをかけた。
「スピネルドーム……セリーヌ大聖堂の地下に、ラボがある」
「あは。あっさりゲロったね、おっさん。でもその気持ち、俺様よぉくわかるぜ」
「いや、もともとそこに向かうつもりだった。ここに来たのは、危ない方の弟子も連れて行くためだ。この女のところへ来ると聞いていたからな。だが、おまえの依頼人がここにいない上におまえがラボの場所を知りたがる、ということは、依頼人は……攫われたんだな、恋」
 違うか、と問われて、その通りだ、と恋はうなずく。そして、もうこちらに興味を失ったらしく手近にあった分厚い本を読みはじめる魔術師を一瞥し、くちびるを引き結んだ。そして、
「シャドウが、嫌な人間と魔封じの匂いがすると言っていた。あいつらが嫌うのは教会の連中だ。魔封じなんてものをわざわざ用意してくるくらいだ、やつらはウタを攫ったあとラボに直行するはず。多分、これまでに集められた赤い目玉もそこに集められているのだろう」
 そう言った直後、となりでアートが奇声を上げつつ両耳に両手を当てて恋に向け、
「恋ちゃん、いまなんっつった? お兄ちゃん、すごい変なこと聞いちゃった気がするぞ?」
「俺、なんか変なこと言った?」
「ごまかすなぁっ! 俺様はしかと聞いたぞ! シャドウがなんか言った、って!」
「じゃあ、そう言ったんでしょ。それよりもアート。耳もとで叫ばないでくれる?」
「え〜、そんな冷たい態度……って言うか、あいつら喋れるんかいっ?」
 それに曖昧に首を振った恋は、知らん顔の黯い魚を濃いブルーの瞳できつく見据え、
「あんたは手出しするなよ、キアラン・シンクレア。ウタには誰も、殺させない」
 本に目を落としたままで魔術師は、億劫そうに鼻を鳴らす。
「好きにするがいい。それよりも。わたしはやかましいのが嫌いだ。さっさと出て行け」
「おわ。カンジわる〜ぅ。いっくら美人さんでもこういうおばさんのお相手はさすがの俺様もちょっとダメかも。っつーわけで俺も行くからな、恋。ささ、はりきって行くぞっ! ところで、なにしに行くんだっけ? お祈り? おやつは持ってってもいいのかなぁ?」
 って言うかラボってなんのラボ? と首を傾げるアートの背を押して、この魔術師の部屋の出口を知っているらしいボブが歩き出した。そのあとについて歩き出そうとした恋を、意地の悪い笑み顔で、黯い魚が呼び止める。
「人手が足りないようならば、黒い毛皮のお友だちに手伝ってもらうのだな。敵と味方の見分けなどがつくかは知れないが、まあ、少しも犠牲を払わずになにかを得ようなんていう甘い考えは……持ってはいないだろう?」
 恋は答えず、無言のままで背を向けた。
 追い掛けるように、耳障りな魔術師の笑い声が響く。
 聞くまいとしても、深い水底にも付き纏うように、黒い鱗(うろこ)を煌かせ、長い鰭(ひれ)を揺らめかせて、薄暗い箱のなかで黯い魚は、嗤う。
 
「せいぜい、死人(しびと)と楽しく踊るがいい」
 
 どこからか、激しく瓦礫を打つ雨音が聞こえてきた。
  

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