こちらへおいで、と手招きをする、底の知れない四角い闇。
 その闇のうちにまではついてくるつもりのないらしい二匹のシャドウを、ちら、と見やり軽く溜息をついた恋は、暗さに足をとられて踏み外してしまわないようにと注意をしつつ、ゆっくりと階(きざはし)を下りはじめる。しかし、数段下りたところでふたたび石のスライドする音が頭上で鳴りはじめ、はっ、と振り返ったところで、視界は完全に闇に閉ざされてしまった。
 もう、あと戻りはできない。
 ふと胸の内に、そんな声を聞いた。それに、わかっている、と肩をすくめてみせようとして、左にある温もりを思い出し、やめる。
 目が見えなくなっても、カラスはおとなしくしていた。だが恋の足は、わずかな明かりさえない全くの暗闇ではさすがになにも見えないため、止まってしまう。
 勘だけに頼るには、魔術師という未知の存在が作り上げた階は、あまりに危険。しかしずっと立ち尽くしている時間も、ない。仕方なく両手を左右のひんやりとした壁につけ、注意深く片足を出す。
「転がり落ちた方がはやい? でも、たぶん途中で死ぬよな」
「アァ」
「だよな。じゃあ、やめとく」
「アァ」
 話しかけてみると、肩に乗ったカラスは意外にも律儀に返事をした。おかげで精神的な支えを、わずかではあるが得たような気になる。
 階は同じ間隔で延々とつづき、恋はその間隔に少しずつ慣れはじめる。しかし慣れはじめる頃が最も危険だ、と銃とナイフの師匠に以前教えられたことを思い出し、途中、何度も足を止めて気を引き締め直した。
 それからどの位の時間が経っただろうか。
 長時間集中しつづけている恋の疲労は、もはや限界に近付いていた。全身の筋が突っ張るようで、そこかしこが重い。喉も渇いた。
「……頭が、痛くなってきたな」
 ほんの少しだけ、と足を止めて右の壁に頭をくっつける。ひんやりとして気持ちが良い。
 だが不意に、ずるり、と頭から身体が沈んだ。
 壁に向かって。
 まるで底のない泥沼に、引き込まれ飲み込まれてしまうかのように。
 カラスがバランスを崩して翼をばたつかせ、鳥の匂いのする風が鋭く頬を叩いた。
 つぎの瞬間、どっ、と身体が石床の上に放り出される。しかし疲労に捕らわれた恋は、しばらく動けなかった。冷たい石の感覚に心地良さすら感じてそのままでいると、急かすようにカラスのくちばしに髪を引っ張られて、仕方なく顔を上げる。
「……もしかして、落ちた?」
 ぼんやりと薄青の輪郭で浮かび上がるカラスに向かって首を傾げてみると、背後からくすくす笑う声が聞こえた。
「落ちてはいなくてよ。でもずいぶんと頑張ったわね、ぼうや。さっさと諦めてしまえば、もっとはやくここに来ることもできたのに。おかげでこちらは待ちくたびれてしまってよ」
 どこか甘いような、しかし帳の向こうに隠れるような、夜を思わせる低めの女の声だ。
 素早く身を起こし左腰の『デボラ』を抜くと、笑い声が響いた。
「あらあら、まだ頑張るつもり? もう少し意地悪をしてあげても良かったかしらね」
「キアラン・シンクレア、か」
 姿の見えない相手の気配を探りつつ訊ねると、声の主は笑うのをふとやめて、
「いいえ。私のなまえはマルグリット」
「…………キアランだろう」
「それは男性名ではなくて? 残念だけど、私は女。それに彼もいま、ここにはいないわ」
「いや。キアランは、偽名だ。マルグリットが本名かどうかは知らないが、性別は……女。教会には男だと、偽っていた。違うか?」
「…………予想以上に、おもしろいぼうやだこと」
 パチン。
 マルグリットと名乗った女が、指を鳴らした。
 とたんにあたりに光が満ちて、恋は眩しさに瞳を細める。やがて明るさに瞳が慣れはじめると、さまざまな古美術品に彩られた豪華なつくりの部屋が、そこに現れた。
 女は、火の入っていない暖炉のまえに置かれた革張りの椅子に、ゆったりと腰掛けている。
 闇のような、長い黒髪と形の良い黒瞳。
 細かい網目のレースとビーズに飾られた黒のドレスから覗く肌は、氷のような白。
 赤いくちびるで意地の悪い笑みを浮かべるその顔は、どこかウタに似ていて美しかった。
 するり、とひろがる袖を揺らしながら右腕を上げた女は、ゆっくりと肘掛けにもたれるようにして、白い指で細い顎を支える。
 年のころは、正直わからなかった。艶やかな髪や肌からして若いような気もするが、かと言って自分やアートとおなじ年代などではないと、その不思議に黒い瞳自身が語っている。
 だから恋は、逆に彼女が自分の捜す魔術師だと、確信を持った。
 女は赤いくちびるを薄い笑みに歪めながらも、冷えきった眼差しで、銃を下ろした恋の頭のてっぺんから足の先までをじっくりと眺め、やがて、ふ、と美しい顔で嘲笑った。
「律、と呼ぶ方が良いかしらね?」
「恋、だ」
 短く返すと、女はしなやかに細い肢体を震わせながら喉の奥で低く笑った。
 それがまるで、いずれそうなるさ、と嗤われているかのようで、ひどく不快だ。
「それで、ここにはどんな用で来たのかしら? かわいらしいぼうやには悪いのだけど、律は消してやらない、とキアランから聞いていてよ」
 どこからか取り出した煙管を美味そうに吸い、紫煙をくゆらせながら女が言った。
 それに、肩をすくめてみせる。
「そのことについては、あとでゆっくりとあんたを口説き落とすとしよう。いまはまず、知りたい場所がある」
「こんな町に、自分のことをあとまわしにしたくなるほど魅力的な玩具があったかしら」
「依頼人が攫われたんでね。請けた仕事をしおおすには取り戻す必要があるだけだ」
「あら、ずいぶんと真面目なぼうやだこと。でも、困った勘違いは早々に捨てるべきではなくて? 仕事に支障が出てしまってよ」
「いや。あんたはキアラン・シンクレアだ」
「根拠があって?」
「……魔力に反応する基という金属に、キアラン・シンクレアは自分の魔力と身体の組織を注いで俺の依頼人を生んだ、と依頼人本人の口から聞いた。依頼人……ウタは、女だ。だったら、身体の組織を与えたキアラン・シンクレアも女だったんじゃないのか、とそう思っただけだ。それに、あんたはウタに……似ている。ただ、それだけだ」
 ウタねえ、と笑みに歪む赤いくちびるはレースに飾られた魚の鰭(ひれ)のようにひろい袖に隠されるが、黒い瞳の奥に鋭いなにかがわずかではあったが閃くのを、恋は確かに見る。
  

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