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その、ゴーストガーデンだ。 「…………なんか、フクザツな気分」 いまにもひと雨きそうな暗く重たい空の下、右と左にシャドウを連れた恋は、先ほど頭から被った血を水で洗い流したせいで冷えた頬を引きつらせながら、つぶやいた。 「律は複雑」 「封は違う」 右と左からぼそぼそとシャドウが言う。 姿には少しも変化はないが、シャドウたちはもう恋を律だと判断しているようだった。そしてシャドウブレイカーであるはずの恋の方も、こうしてシャドウ二匹を連れて歩いている。 ほとんど勢いだけで、シャドウのねぐらと言われているゴーストガーデンに足を踏み入れた恋だったが、予想に反してほかのシャドウの姿が見当たらない。熱狂的に出迎えられるよりは良いが、なんとなく拍子抜けしてしまい、それがより一層、気分を複雑化させていた。 生気の感じられない黒い木々がうな垂れているこの場所は、古い墓地だ。墓地を抜けると、時計塔を中心にひろい平地がある。このあたりは以前、枝振りの良い木々や花々が綺麗な刺繍のように並んでいた公園だったというが、しかしいまはその面影をどこに見ることもできない、青白い亡霊と黒い獣の影のみが荒れた墓石に映るだけの、不気味な場所となっていた。 「棺桶は荒らさないんだな」 古い銃撃戦の跡やらは見ることができるが、堀り起こされた形跡のない墓石の群れを、ちら、と見やりながら言うと、二匹のシャドウは無機質な真紅の瞳で恋を見上げ、 「土は食べない」 と短く言った。 そう、とその答えには肩をすくめてみせただけの恋だったが、だがややあって、そう言えば、とふと足を止める。 これまで気にしたことは一度もなかったが、いまこの町で暮らしている人間が死んだあとは、一体どこに行くのだろうか。 土は食べない。だから棺桶は荒らさない。 それはつまり、この墓地には新しい墓はないということ。シャドウのねぐらと呼ばれているのだから、誰も近寄らないのは当然といえば当然。 しかし先日恋は、銀行まえでシャドウに食い殺されていた男の遺骸を教会に運んだ。 当然その遺骸は、司祭やらに祈られるなどしたのち葬られるのだろう、とあたりまえのように思っていた。だがしかし、この墓地ではない墓地が、ほかにあっただろうか。よくよく考えてみると、そんなことは誰からも聞いたことがないような気がするのだ。 新しい墓地の場所を聞いていないだけだろうか。知らないだけ、なのだろうか。 死んでも誰にも見付かることなく日が過ぎるとそのまま腐り、シャドウあるいは鳥や犬猫に見付かれば彼らの糧となる。けれど教会に運ばれた遺骸は、一体どこへ行くのか。 いまは土葬ではなく火葬にしているのだとしても、その光景を実際に見たことがないし、話を聞いたこともない。 死と隣り合わせの生活をしているというのに、死んだあとのことには興味がなかった。いや、そんな生活をしているからこそ、というべきか。死後を考える余裕を持つどころかいまを生きることさえも辛くて、酒や薬に溺れ、シャドウを狩ることに没頭し、ありもしない神に祈り、あるいは他人と共有する熱に我を忘れて、痛む現実を忘れようとする者で溢れる町だ。いつ死に食い殺されるかというその恐怖から、皆が目を逸らしながら生きている。 けれど一度足を踏み入れると、やはり違和を感じる。 灰色の冷たい町には、いつでも不確かな闇がつきまとう。 それは誰もがとうに知っているはず。けれど、開いた扉のまえで足を止めてしまう。得体の知れないなにかが蠢くらしい闇の向こうに、このまま歩んでいっても良いものなのか、となぜだか躊躇してしまうのだ。 「律、どうした」 こちらの様子をうかがうように、じっとこちらを見つめてくる四つの赤い瞳。 恋はつい足を止めてしまっていた自分を、嗤った。 恐ろしいなら引き返せば良いだけ。そう思う反面、もはやそれができないところにまできてしまっていることも、わかっていたはず。 「……なんでもない」 いずれこの身は、闇に堕ちる。 黒い毛皮の下、赤い目玉だけを残して腐れ落ちるだけ。いま立ち止まったところで、それに変わりはしないだろうに。 しばらく歩くと、暗い空を指差すかのように建つ、時計塔が現れた。 墓地や公園の木々は損傷が激しいというのに、この塔には傷ひとつないらしい。クリーム色の優美なラインは、まるで若い女性のもののようだった。周囲につり合わないその姿がとってつけたように見えて、よけいに胸を逆撫でる。 とはいえ、巨大な時計盤に浮かぶ針は同じところに止まったままで、時を刻んではいない。 しかし恋たちが時計塔に近付くと、ポ、と不意に時計の盤に灯りが入った。 眉を寄せて足を止めると、まるい月のように浮かんだ時計盤のまえに、ちいさな黒い影が空からこぼれて舞い降りた。 カアァァッ。 割れたような声でひとつ鳴いたその鳥は、カラスだ。 盤のまえの張り出した部分に降り立って、首を左右交互に傾けつつこちらを眺めるような仕草。そしてもうひと声、カラスは鳴いた。 すると、止まって動かないはずの時計の針が、急に動き出す。だがそれも、ただ正しく時を刻んでいるわけでは決してなかった。時針も分針もおなじスピードで、しかしそれぞれが別の方向へとぐるぐると動き、そうして盤を何週か廻ったあと、ぴたり、とある数字の上でまるで示し合わせたかのように止まる。 十二時。 恋は無言で自分の腕時計を見た。違う。現在の時刻を指しているわけではない。 「……キアラン・シンクレア、か」 魔術師の居場所は、ゴーストガーデン。そこにある時計塔の十二時方向、地底の塔にキアラン・シンクレアはいる、と確かにそう聞いた。 つまり、これから訪ねる先の相手は、おまえのことなどとうに知っているぞ、と地の底でこちらを嗤っているのだ。 「おまえらの親って、カンジ悪いな。だが、気付いているなら話ははやい、か」 かたわらを歩むシャドウに向かってくちびるを歪めた恋は、溜息をつきつつ、舞い降りてきたカラスのあとについて塔の北側へと向かう。 「おまえって、もしかして」 なんとなく見覚えのあるようすの黒い鳥に顔をしかめつつ声を掛けると、ひょこひょこと歩いていたカラスが意地の悪そうな瞳で振り返り、短く鳴いた。 「やっぱり……おまえかよ」 恋のテリトリーにいたカラスだ。 偶然、ではないだろう。だとするのならば、このカラスはキアラン・シンクレアの使いか。 高みの見物を決め込んでいたのはカラスではなく、主である魔術師のほうだったわけだ。 そうなると、はじめから魔術師の思惑どおりに動かされていたように思えて、不快だった。 「先日はどうも」 悔し紛れに皮肉を言ってやると、こちらの言っていることがわかっているのか、カラスは馬鹿にするように太いくちばしをかぱりと開けた。 時計塔をぐるりと囲む石畳の北側の一部で立ち止まったカラスは、さっさと来い、とばかりに翼をばたつかせる。恋が歩みを速めて近寄ると、ぴょん、とカラスは左肩に無遠慮にも飛び乗った。 「誰が乗っていいって言ったよ。焼いて食うぞ」 恋が横目で睨み付けると、カラスはふいとそっぽを向く。 その時だった。突然ガラガラと足元で音がしはじめ、数枚の石畳がわずかに浮き上がった。 まるでパズルのような、複雑に左右にスライドする石の動きに、恋は無言で肩をすくめる。 四角く平らな石は、氷の上を滑るように移動して軽く積み上がり、その入り口を縁取った。 動力はやはりメリッサと同じなのだろうな、と石が動くくらいではもう驚きもしなくなった恋は、それを眺めながらぼんやり思う。 やがて足もとに、地下深くへと続く長い階(きざはし)が現れた。 |