バー『フォースター』が、もうすぐ目のまえというところ。
 鼻歌混じりで縄張りのブラックヒルに戻る途中のアートは不意に、ぐい、と腕を引かれて狭い路地に引き込まれた。
 なにしやがる、と言うと同時に銃口を向けたアートだったが、腕を引いた者の顔を見て、思わず瞳をまるくする。
 青ざめた顔の、キャサリンだった。
 いつもは丁寧に施されているはずの化粧もいまは中途半端で、なにか恐ろしい思いでもしたのかこの辺りで一番人気の娼婦は、ずいぶんと怯えて疲れきった酷い顔をしている。
 どうした、とアートが眉を寄せると、キャサリンは震えながら色のないくちびるを開いた。
「レ、恋。恋は?」
「あ? あいつがどうかした?」
「無事なのっ?」
「……おう。さっき会ったぞ」
 どうかしたのか、ともう一度訊ねると、しばらくキャサリンは落ち着きなく視線をさまよわせて迷うらしい。しかし、アートがいつものにやけ顔を改めて辛抱強く待っていると、どうやら話す気になったようだ。とは言えすぐには声に出せないのか、不安げに何度も口を開けたり閉じたりを繰り返す。それでもさらにじっと待ってやると、やがて早口で、
「ローズが殺されたわ」
「ローズ? って……ええと、きのう恋と会ってた可愛いダンサー?」
「そう。あの娘(こ)よ。今朝、店の化粧室で死体が見付かったの。ずいぶん、殴られたみたいで……あんな……っ」
「……なにがあった」
「詳しくはわからない。でも、昨夜見慣れないお客が『フォースター』にやってきて、恋のことを聞きまわってたわ。あたしはうまくはぐらかしたつもりだけど……ローズは嘘やごまかしが苦手な娘だったから……あんなに良い娘だったのに、酷い……っ!」
 両手に顔を埋めて泣き出したキャサリンの、派手なピンクのフェイクファーに包まれた肩を抱き寄せながら、アートは背後にある、ずっと自分のあとをつけてきている気配に、内心で舌打ちをする。
 急ぐ方が良いらしい、とそう判断したアートは、キャサリンのカールの取れた髪を撫でながら、いかにも遊びに慣れたようすで彼女の耳にくちびるを寄せた。
「一緒に来な。あてになるかどうかは知らねえけど、逃げ込めそうなところを聞いてる。そんなわけだから、慰めて、ってカンジで」
「……しな垂れかかればいいのね?」
 言うなり、キャサリンはアートの胸にすがり付く。それをしっかり抱き締めると、アートはキャサリンの顎にすいと指をかけて彼女を仰のかせ、いまは色のないくちびるを吸う。
 そうしてやわらかい腕が首に絡められ顔が隠れると、間近でキャサリンに睨まれた。
「あとでお金、もらうから」
 いつでもどこでもどんなに危ない目に合っていても、ちゃっかり料金を取るあたりがプロ根性だな、とくちびるを離して苦笑するが、そこはアートも負けてはいない。
「だったらガード料、キスひとつ分差し引いて請求するからネ。俺様のガードは高いのだ」
 遠目には熱っぽく見つめ合うように見えるだろうが、至近距離でたっぷりと睨み合ったふたりは、それからさらに十数えるとブラックヒルを目指し、身を寄せ合って歩き出した。
 ブラックヒルにつくと、確かこの階段だったはずだぞ、と人ひとりがやっと通れるほどに狭くて薄暗い、コンクリートでできた左右の壁に息苦しさを感じる階(きざはし)を見下ろす。
 そこをまずはアートが下り、つづいてアートの黒いセーターの裾を両手でしっかりと握るキャサリンが下りた。
 やがて階の先に現れた頑丈そうな鉄の扉に、アートは軽く息を飲んだ。
 ほんの一瞬ためらうが、迷うひまはないと思い直し、そこを素早く拳で叩く。
「ど〜も〜、ごめんくださ〜い」
 返事はなかった。だが、名乗ればおまえなら開けてくれる、という恋の言葉を思い出し、
「シャドウブレイカーのアートだけどぉ。えーと、銃の調子悪いから見てくれるぅ?」
 すると、なかから声が返った。
「もうひとり、いるな」
 それを聞いたとたんに、アートは顔を強張らせる。知らず、手に汗を握った。
 扉にはこちら側を覗くための穴も仕掛けも、なにもないのだ。恋が頼れというくらいだから、ただのガンスミスではないとは思ってはいたが、何者だコイツ、とアートは背を冷やす。
「本人に名乗らせろ」
 返った低く唸るような声音に、キャサリンが怯えつつ震え声で名乗る。すると、女から入れ、と言う声のあと、簡単に扉が開いた。
 思わず顔を見合わせたアートとキャサリンだったが、黙って狭い場所で身体を入れ替え、先にキャサリンが扉の隙間をくぐる。すると、
「……うっ」
 突然、暗闇のなかに消えたキャサリンが短く呻く声がした。はっ、として銃を抜き構えたアートは半分ほど開いた扉の陰に身を隠す。息を押し殺してそのまま身構えていると、やがてなかから声が掛かり、アートは陰から飛び出るようにして銃口を闇の向こうに突き付けた。しかし、
「おまえもまだ甘いな」
 ぐい、と逆にこめかみに冷たい銃口を押し付けられて、黙らされる。そのままあっさりと銃を取り上げられて首の根を掴まれると、まるで猫の子が運ばれるようにして奥へと連れて行かれた。
 なにかに足をぶつけつつ暗いなかを歩かされたアートは胸のなかで恋を罵るが、しかし同時に、なにかこの荒々しい扱いには覚えがあるような気がするぞ、と首を傾げる。
 誰だっただろうか、と記憶をたどってみても、これまで出会った人間全てを、特に男の顔となまえなどをいちいち覚えているような性格ではないために、さっぱり思い出せない。
 だがやがて、パチリという音とともに点いたオレンジの灯りのなかに現れた、髭の男の顔を見たとたん、
「っだーぁっ! 出たぁっ!」
 思わず、叫んだ。
 するとアートにとっても懐かしいその男は、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「まるで幽霊でも見たかのような反応だな、クソガキ。おまえも相変わらずだ」
「はあぁっ? なにっ? なんであんたこんなところにいるんだよ? って言うか気付かなかったぞ、俺様のテリトリーなのにぃっ!」
「マンホールの下では世話になったな。元気そうでなによりだが、少々うるさ過ぎるぞ」
「うわー、まだ生きてやがったのか。とっくに殺(や)られたと思ってた! しぶといっ!」
「…………揃いも揃って、失礼なガキどもだ」
「ってことは恋にも言われたんだな。まあ、当然か。あんた性格悪いもん」
 それにしても恋のヤツびっくりさせやがって、とアートは顔を歪めつつ、オレンジ色に染まった部屋のなかを見まわす。キャサリンは気絶させられて椅子の上だ。
「恋がおまえをここに寄越したということは、面倒事だな。おい、手伝え」
  

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