重い獣の下敷きになった左手を動かしてみるが、こちらは銃もナイフも抜けない状態だ。足で腹の上のシャドウを除けようともがくが、動いてはくれない。
 突起を持つシャドウが、得意の頭突きでこちらの息の根を止めてやろうと、小さな頭を上下させはじめた。
 身体中が痛いし、身動きは取れない。
「……情けないな」
 助けに入ろうとして撃たれるし、結局その男を死なせてしまった。
 それに濃い血の臭いと痛みで、気分は最悪。
「これでどこが、シャドウブレイカーだよ」
 ウタには偉そうに言ったくせに、とくちびるを歪めて、恋は自分を嗤った。
 『デボラ』のシリンダーに残った弾を撃ち尽くすのと、シャドウに命を引き裂かれるのでは、どちらの方がはやいだろうか。
 腹を撃ったシャドウはその分動きが遅くなるだろうし、ゆっくり現れた四匹目は飛びかかろうとする時にわずかな隙ができるはず。最初に撃つならば、突起の重さにまかせて突っ込んでくる五匹目からか。
 ひゅっ、と息を吐き出し、徐々に頭の上下運動の間隔を狭めるシャドウを、見据えた。
 しかし不意に、頭に突起のあるシャドウが動きを止める。
 なんだ、と思うところに、
「……律」
 という低く唸るような声を耳に聞いた。
「うっ、ぐ……っ!」
 そして恋は、息をつまらせる。
 焼けるような激痛が背を襲い、身体の自由を奪ったのだ。
 傷が、痛い。身体の内側から鋭い爪が伸びて、傷を開こうとするかのようだ。
 銃を持つ腕が震え、下がってしまう。
 息ができずに黒い毛皮の下で喘ぐと、三匹のシャドウがゆっくりと距離を縮めてきた。
 どっと冷たい汗が噴き出し、熱い喉の奥からおかしな音が漏れる。
 指が引きつって、銃が落ちた。
 拾おうともがくが、頭から被ったシャドウの血と自分の汗とで手が滑って、思うようにならない。そのうち、『デボラ』がシャドウの毛並みに沿って滑り、地面に落ちてしまった。
 重い眩暈に、黒い輪郭が曖昧になる。
 鋭く光る牙と、肉が腐ったような臭いのする息が近くなった。
 つぎに来るのは、長い牙が皮と肉を突き破り骨をも砕く、声も出ないような痛みに違いない。
 腹の底で自分を嗤いながら、覚悟を決めて瞳を閉じた。
 ふと、ウタの声を頭の隅に聞く。
 
 ごめんなさい。
 
 そう謝っていたっけ。けれど謝ってもらう必要は、ない。
 ちょっと躓いたこちらの、失敗だ。
 だが、いまここでシャドウに食われて死ぬほうが、ちょっとはマシか。
 律に、なるよりは。
 さあ、焦らさずにさっさと食えよ。こっちはもう銃もナイフも持ってはいない。少しも長引かせてくれるな。一気にやれ。
 しかし、
「あ……?」
 不意に、ざらりとした生温かいものが左の頬を撫でた。
 震える目蓋を開けた恋は、一瞬瞠目する。
 なんと、腹から血を流したシャドウが、血と汗に濡れた恋の顔を舐めているではないか。
 そしてさらに、味見かよ、と苦笑を吐き出す恋の身体がなぜか、ふと楽になった。
 ドスン、と突起のシャドウが、恋のかわりに仲間のシャドウの死骸を串刺しにして、それを恋の上から地面に落としたのだ。
 前足の太いシャドウは恋の目のまえに、まるで主に忠実な犬のように座り込み、ふたつの真紅の瞳でじっとこちらの瞳を見つめている。
「……な、に?」
 銃を拾うのも忘れて、壁を背に座り込んだ状態のまま、恋はゆっくりと瞬く。
 ざらり、とまた頬を舐められて呆然とそちらを見ると、口から血を滴らせながら、
「律、ここにある」
 と唸るかわりにシャドウが、口をきいた。
 え、と口を歪めると、左頬の傷が引きつれて血が溢れる。そしてまた、それを舐められた。
 すると今度は、正面に座るシャドウが、律、と恋に呼びかける。
 慌てて自分の身体を見、ゆっくりと恋は首を振った。異変は、ない。
「律じゃ……ない」
 激しく首を振ると、頬を舐めていたシャドウの身体が突然ゆっくりと傾き、大量の血をこぼしながら重く濡れた音を立てて地面に倒れた。
 赤い瞳がゆっくりと虚ろになっていき、やがて拍動が呼吸とともに消え失せる。
 思わず伸ばしかけた左手を右手で押さえつけ、恋はシャドウの死骸から瞳をそらした。
「俺は律じゃない。恋・ローウェルだ」
 自身に言い聞かせるように言って、『デボラ』を拾う。もう震えもなくなっていた。
 いつもとおなじ、銃を握る自分の手指。
 律には、なっていない。
 けれど、シャドウたちが恋を襲ってくることはもう、なかった。そして、律、と呼び掛けるその言葉が、わかる。わかってしまうのだ。
「……俺は、おまえらをまとめる律じゃなく、おまえらを祓うシャドウブレイカーだ」
 右手に『デボラ』、左手に『ダレル』を持ち、それぞれの銃口を二匹のシャドウに向ける。
 けれどなぜか、引き金を引くことができない。
 指を動かせば撃てる。その黒い獣を祓ってしまえる。
 けれどもう、自分のなかからシャドウを撃つ気が、消えてなくなってしまったようだった。
 言葉がわかるようになっただけ。
 それだけでなぜか、その死を痛いと思う。
 そんな自分がいることを知り、恋は銃を持った手でゆっくりと頭を抱えた。
 だが、その時、
「忌々しい、臭い」
 正面のシャドウがふとそう言って立ち上がり、黒い鼻を動かしてあたりを嗅いだ。
 はっ、と恋が顔を上げると、シャドウが見えないなにかに向かって低く唸りはじめる。
 恋は素早く立ち上がると、二匹のシャドウと同時に駆け出した。そして、
「ウタ……っ!」
 ウタを残してきた路地に飛び込む。しかしそこに、
 彼女の姿は、なかった。
 まさかと思いつつも、ゴミ箱の蓋を開けて覗いてみるが、やはりいない。
 あたりを見回すが、焦りばかりが路地の狭間にちらつく。
「魔封じの臭い。この臭い、厭わしい」
 なんだ、と鼻に皺を寄せるシャドウたちに瞳をやると、彼らは頭を激しく振って、まるで絡みつくなにかを振り払おうとするかのような動作をする。
「……ウタは?」
「『歌』の匂い、分からず」
「魔封じの臭い、未だ有る。厭わしい」
「捕まった、ってことかよっ!」
 どこからかかび臭く湿った風が流れ、灰色の空はより一層暗く、重くなった。
  

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